未整理
≫この2人、人間主義社会日本だからこそ、強烈な自立性、強烈な個性が生まれるんだってことの証明だわ≪(コラム#11076。太田)
同調圧力の反動?
⇒いや、人間主義者社会って、基本的に互いに信頼し合ってる社会・・行き詰ったら手が差し延ばされる社会・・だから、自分の好きなことをしたい人々は自由にそれに耽ることができるのに対し、非人間主義社会じゃあ、最初からそんなこたあ諦めるか、自分で保険をかけまくってないしは無保険でそれをあえてやるか、の選択しかないって趣旨。(太田)
⇒私も「重要」だと思いますが、恐らくは丸山とは全く異なった理由によってです。
私見では、宗教について「淡泊」であることと「政治において・・・人任せ信用してる」こととは、どちらも人間主義の帰結であって、前者は、日本人のほぼ全員が山本七平の日本教(注86)ばりに言えば、というか、それをより的確に言えば、人間主義教、の教徒であることから、理の当然として、教義宗教に対して違和感を覚えるためであり、後者は、為政者側が基本的に人間主義的に被治者側の意向に沿った統治を行ってきたことから被治者側が一般に為政者側に信頼感を抱いている、が故なのです。
そもそも、日本で言う「友人」と「朋友」は、似て非なるものです。
「「朋」は同門の友、「友」は同志の友」
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なのであって、それは、私の言うところの、一族郎党命主義における、同じ一族郎党に属さないにもかかわらず、「「困った時に助け合う」関係」にある人
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のことなのです。
つまり、「朋友」なるものは、日本のような人間主義社会でもイギリスのような人間主義的社会でもなく、教義宗教もなきに等しい支那には「一般公衆の間の倫理が存在しない」ことに加えて、支那は不幸なことに公的な「セーフティーネットが未整備な社会」でもあり続けてきたところ、
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そんな社会において、「一族郎党」を補完する私的な「セーフティーネット」を指しているのです。
付言すれば、孟子が、「朋友有信」、すなわち、「友人の間では、お互い信頼し合うことが大切である」と言った(『孟子』滕文公章句上)
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のは、互いに確実にセーフティーネット機能を果たさない者同士は朋友とは言えないよと釘をさした、ということなのです。
<人間主義とはなんぞや、だな。↓>
「・・・中国メディアの百家号・・・記事はある日本人の親が決めた4つのルールを紹介し、「ルールは子どものためになるのか」考えるように勧めている。それは「公共の場所で声量を抑える」、「うそをつかない」、トラブルがあっても「他人を傷つけずに自分をしっかり守る」、「誠実さには誠実さを返す」の4つだ。
この4つが守られれば、子どもは他人の気持ちを思いやる習慣や、責任感と誠実さが身につき、問題を上手に解決でき、人間性を高められるなどの利点があると伝えている。」
→
<人間主義社会日本では、犬もまた、人/犬間主義犬になるのだよ。↓>
「中国メディア・東方網・・・記事は・・・日本の飼いイヌにあるもう1つ大きな特徴として「変態レベルな清潔さなのだ」と指摘。旅先で出会ったお年寄りが散歩させていた3頭の大型犬が真っ白でフワフワの毛をしており、そのきれいさに手で撫でるのを憚ってしまうほどだったとした。また、あまりのかわいさに写真を撮ろうとしてもイヌたちはとてもおとなしくしており、主人の命令にちゃんと従っていたと伝えている。」
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⇒上掲の雑多な諸文を私なりに要約すると、神道とは、
一、現世利益、
二、結界作りとその維持、
を図る営みであって、
三、一と二はリンクしている、
ということになりそうだ。
一は広義の宗教において、ありふれたものだが、二はかなりユニークだ。
その結果として、三もかなりユニークだ、ということになる。
この、一、二、三、の相互関係について、私は理解はこうだ。↓
「人間も(人間以外の生物を含む)自然も神性を帯びているので、我々は敬意と畏怖の念を持って接する生活を送らなければならないが、このことを忘れないようにするために、時々、神社を参拝し、身を清めた上でそこに祀られている(通常、鎮守の森であるところの)自然や(その大部分は、既に亡くなっているところの)人間に敬意と畏怖の念を捧げる参拝を行う。
その結果としての現世利益として、日本は、森林の乱伐が防止されて風水害の増加を回避することができ、戦乱の頻度もまた抑制することができたおかげで、安全にして平和な社会であり続けてくるとともに、日本人は、情けは人のためならず、という観念が常識化したところの、世界で唯一の人間主義社会、すなわち、世界で最も思いやりに溢れ、世界で最も個人が尊重され、かつまた、伝染病や感染症に比較的罹りにくい、心身とも健康な生活を送ることができる社会、において人生を送ることができてきた。」
ちなみに、「まつり」は、日本人の人間主義的な生活の総体(狭義の「まつり」と神社参拝)である、と見たらどうか。
⇒在宅勤務も、人間主義的経営に反するんだろうよ。↓
「・・・「オフィスで働いているよりも、在宅勤務時の生産性は低い」と答えた日本人は40%。世界平均の13%を大きく上回っている・・・」
→ (太田)
ウーム、人間主義である。↓
「世界で唯一!?「ラブドール」専門の葬儀社が大阪に…お葬式に参列してみた 手厚い供養に思わずにじむ涙・・・」
⇒非人間主義にして女性差別社会ではこうなる。↓
「韓国では、20代男性10人のうち6人が「反フェミニズム的」という調査結果がある。韓国の若者に取材をしてきたライターの安宿緑さんは「若い男性を中心に女性嫌悪が拡大している。特に20代の男性たちは『女性のほうが自分たちよりも優遇されている』と感じている」という――。・・・」
→ (太田)
日本は家族主義じゃあなくて人間主義だし、家族主義は広義のアングロサクソン諸国以外の(日本を除く)全ての国にあてはまるはずだが、あんまし聞こえてこないのも不思議だ。↓
「・・・日本以外でひきこもりがとくに多いのは、韓国とイタリア。・・・
いずれの国も、30歳までの成人した若者の親との同居率は70%以上。成人してからも家から出て独立せず、親に面倒をみてもらいながら暮らしてよいとする家族主義的文化があるのです。・・・
家族主義から個人主義に切り替えればいいという単純な話ではありません。イギリスやアメリカはひきこもりが少ない代わりに若いホームレスが多<いのです。>・・・」
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精子は人間主義的働き者なのね。
卵子は待ってるだけだもんなあ。
現代の日本の男と女の原型がここに。↓
「精子は互いに助け合い卵子を目指す・・・」
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<日本は人間主義社会だからこそ、人々は真の個人主義者たりえているののだ、という鋭い指摘をしている。↓>
「・・・今日頭条はこのほど、日本在住の中国人の見解として「長年日本に住んでいるが、殴り合いのケンカどころか、口ケンカする日本人の姿すら見たことがない」と紹介する記事を掲載した。
記事は、中国でも広く知られる日本のテレビドラマ「半沢直樹」では登場人物が大きな声を張り上げるシーンが多数登場したことから、「半沢直樹」を見た中国人は「日本人は怒りっぽい」と誤解してしまうかもしれないと主張。しかし現実の日本人のモラルは非常に高く、日常生活において怒鳴る日本人を見かけることはまずないと紹介した。
続けて、中国では公共の場を含め、口ケンカは日常的に起きていると紹介しつつ、中国人がいとも簡単に他人と喧嘩してしまうのは「自分と異なる考え方を許容できない」からだと指摘。しかし逆に日本社会には「自分と異なる様々な考え方があっても良い」と考える人が非常に多いと説明した。
さらに、多くの日本人がこうした考え方ができるのは「自分は世界の中心ではない」、つまり「自己中心的」ではないためであり、それゆえに日本社会には社会のルールの大枠から外れさえしなければ、人にはそれぞれ自分の好みや習慣に基づいて自由な意見を持ち、自由に生活する権利があるという共通認識が存在すると説明した。
記事は、日本社会には「自分とは異なる個性に対する包容力」があり、またこうした考え方が社会に浸透しているゆえに、日本人はめったに喧嘩しないのではないかと論じた。」
→
<これも間違い。日本でdebateが盛んじゃないのは、debateの前提としている公理的なものを日本人なら概ね共有していることと、人間主義者ばっかしだから、互いに察し合うから、事挙げする必要が少ないからであり、これ自体は決して悪いことじゃないのよ。
問題なのは、「公理的なもの」が間違っている場合があること。「日本は女性差別社会だ」や「先の大戦で日本は負けた」なんてのがそうだ。↓>
「・・・森会長が、ある種のいら立ちとともに言っているのは、シャンシャン総会的な「ヨキニハカラエ」が通用しないことへのクレームなのではないか?
つまり、あれこれ異見を差し挟まず、あらかじめ準備された結論ありきで、実質的な議論の場など一切念頭にないシナリオからずれることを「恥ずかしい」と言っているのではないか?
もしそうであるとしたら、これは「ヤクザの行動原理」に近いものと言わざるを得ません。
つまり「親分がシロといえば、黒いカラスも白くなる」という「統率」がとれていることが任侠団体としては重要ですから、それができていないのが「恥ずかしい」というのはよく分かる話です。
しかし、こういうのをいい加減やめないと日本の未来はありません。・・・」
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<人権における優先順位問題じゃあなく、(人間主義概念をもってする、)人権概念そのものの根底的見直しを迫られてんだよ。↓>
The debate over boycotting the 2022 Olympics throws into relief a far bigger question: Is Beijing’s growing influence allowing it to reshape global human rights priorities?--
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人間主義経営学ってやつだわな。↓
「・・・「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢。何事もまず公益を考え、利益を上げるにしても道理を重んじ、決して独り占めしない―。彼が唱えた道徳経済合一説・・・」
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⇒そういう言い方もできるかもしれませんが、要は、(厩戸皇子の言う)和の精神=(私の言う)人間主義、が、互いが互いの心中を察しつつ、それだけでは不十分な部分を話し合いで補う、というもの・・ムッチャ、ユニーク・・だからだ、というのが、私の見解です。(太田)
とは言え、日本は生産力の高さと労働日数の多さは世界でも有名で、西洋化された大都市においては、「誰も立ち止まらない」という、ある種のウォールストリート的な日常が見られます。
そして文字通り、働きすぎて死ぬことを意味する“過労死(karoshi)”という言葉も存在するのが、日本という国の一面でもあります…。
⇒そういう行き過ぎが起きうるのは、日本以外とは違って、人間主義者である大部分の日本人にとって、仕事は、他の人間達や(広義の)自然と関係性を取り結ぶことであって、生活の資や富を得る手段じゃなく、それ自体が目的だからだ。(太田)
資本主義/個人主義はゲルマン文化起源のイギリス人のway of life に他ならず、普遍性などない証拠が、人間主義(じんかんしゅぎ)日本プロト文明/日本文明の存在である、的ことに、毛沢東は既に戦前に気付いていたというのに、そんなことを今頃言い出してるヒトが日本にいるわけだ。↓
「・・・「資本主義」こそが、気候変動問題の諸悪の根源である。では資本主義の特徴とは何だろうか。最も鋭く資本主義の問題点にメスを入れた人こそ、『資本論』の著者マルクスに他ならない。
資本主義に閉じ込められた私たちの生活を、「帝国的生活様式」という。先進国の生活は、グローバル・サウスと呼ばれる南半球貧困国からの収奪で成り立っている。もともと資本主義とは、価値の増殖と資本蓄積のために、絶えず新しい市場を開拓しつづける運動のことである。例えば環境破壊が起きたとしても、資本家の眼からみれば利潤を生みだすチャンスと映る。資本家にとっては公共性の高い水でさえも、カネを生みだす商品にしかすぎず、貧困国で強制するアグリビジネスの農業用水のためならば、たとえ地域住民が飲料水に事欠くことがあっても優先的に使用されてしまう。
私たちが商品を買う理由は、それが生活必需品であるよりも、かっこいいからとか、最先端品を身に着けている優越感のために消費する。つまり資本主義は、新たな欲望を強制的につくりだし、購買意欲を刺激せねばやまないシステムなのだ。・・・
「価値」を基本原則とする資本主義は、「使用価値」もすべて商品にしてしまったのである。水や空気、土地などの地球の恵みに価格をつけて、商品化し、貨幣で売買できるようにしてしまったのだ。・・・
<そんなことを日本人に向かって講釈するって、かつての日本人仏僧じゃあるまいし、場違い、時代錯誤も甚だしいってもんだぜ。↓>
必要なのは資本主義の終焉だ。マルクスの手を借りて現代資本主義の分析を終えた・・・斎藤幸平・・・氏は、「だからより良い未来を選択するためには、市民の1人ひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければならないのだ…正しい方向を目指すのが肝腎となる」・・・と主張する。・・・
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<何度復活しそうに見えても結末は同じ。自由民主主義は滅び人間主義は生き残るのよ、フクヤマ・サーン。↓>
Francis Fukuyama Predicted the End of History. It’s Back (Again).
<さて、草木国土悉皆成仏思想を支那から継受し、普及させたのは、時代を下った空海であり、普及したのは、私見ではそれが日本の神道の私の言う人間主義的世界観に合致したからだ。また、だからこそ、空海は、日本で広く崇拝され続けた。↓>
「草木国土悉皆成仏<とは、>草木や国土のような心識をもたないものも,すべて仏性を有するので,ことごとく仏となりうるという意味の成語。《涅槃経》の〈一切衆生,悉有仏性〉の思想を基盤とし,生命をもたない無機物にもすべて〈道〉が内在するという道家の哲学を媒介として,六朝後期・・6世紀頃・・から主張され始めた<支那>仏教独自の思想であり,・・・この思想はインドにはなく,・・・特に日本で流行した。日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗の円珍や安然らによっていわれた。それが鎌倉時代になって,親鸞,道元,日蓮らによって主張され<るに至った。>
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<qKMA8pDY>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
「全市民46万人余の個人情報入ったUSBを紛失 兵庫 尼崎市が発表・・・」
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日本でマイナンバーカードの普及が進まない最大の理由ってコレだろうな。
杜撰な管理体制知ってるからそれを取り扱う連中を誰も信用してない。
⇒その全く逆で、完璧に管理されちゃって脱税等の悪いことがができなくなるからだろ。
消費税が導入されてからインボイス制度が始まるまでの抵抗によるタイムラグ見てみ。
人間主義者って別段品行方正じゃあないんだぜ。(太田)
<「江戸時代に武士が平民を斬った」ことは殆どなかったし、戦争の際の非戦闘員への残虐性は万国共通。↓>
人間主義の観点からは常識。↓
「100年前、「危険思想」とされた精神医学者サリヴァンが提唱した「個性とは幻想である」の真意とは? アメリカの精神科医が生涯をかけて訴えたこと・・・」
⇒ロシア人についての形容は、要するに弥生性の説明なんだよ。
つまり、プロト日本文明の日本列島の住民(大昔と現在の住民)だけがまともで、後は、世界中の人々はロシア人なのさ。
例えば、自他ともに認める悪逆非道のロシア人が殺した人数よりも、紳士を装ったアングロサクソンが殺した人数の方が遥かに遥かに多いことを思え。
これは決して私の中のethnocentrismがそう言わしているんじゃないぜ。(太田)
要は、キリスト教を含む、アブラハム系宗教群が、野蛮にも、(絶対的な善と絶対的な悪からなる(太田))善悪二元論、と、善が最終的に勝利する終末論、からなるゾロアスター教の教義
→
を引きずっている、ということさえ理解していればいいのではないか、と。
彼らにとって、人間は、このような善と悪の力に翻弄される哀れな存在であって、善行をいくら積もうと、悪の力の影響から脱却できるかどうかは、人間には恣意的としか見えない、神の決定、に委ねられている存在らしい。(典拠省略)
それに対し、原始仏教や神道にはそんな発想はなく、人は、善(人間主義者(太田))であって、悪のように見える場合は、当人の本来的善性が、曇っている/汚れてしまっている、だけなのであって、人にはこの曇りや汚れを拭い去って本来的善性を回復する能力もまた備わっている、と思っている。(コラム#省略)
言うまでもなく、前者は弥生人にとって都合の良い世界観を提供しているところ、後者の世界観を当然視する縄文人にしてみれば、自分達の弥生人達に対する安全保障のためには、縄文的弥生人を内製するか、弥生人に隷属することで弥生人を事実上の傭兵として用いるか、しかないわけだ。
⇒私の言う人間主義なる概念を大谷は知らないわけですが、人間主義は、特殊主義どころか普遍主義でさえなく、人間の本性であるところの普遍的な真実、なのであり、日蓮主義は、大日蓮主義の時から、超時代的思惟なのです。(太田)
当時も今も、その大部分が悟っている(=人間主義者である)人々が日本に住んでるってことなんでっせ、本郷サン。↓
「・・・当時日本にやって来たキリスト教の宣教師が感嘆しているんです。
日本人ほど、道徳心に満ちた人々はいない。盗みを働かない。うそをつかない。誰も見ていなくても、悪事を働くことがない。彼らは「お天道さま」が見ている、という。だから「お天道さま」に恥じない振る舞いをしなければならない、と言う・・・。・・・」
もののあはれ=日本人独特の思考方法、情緒・・・=人間主義、なんだぜ。↓
「・・・『源氏物語』『紫文要領』『源氏物語年紀考』など、宣長は『源氏物語』も40年ほど研究しています。 そうして、「もののあはれ」というものを発見するのです。 儒教、仏教渡来以前の日本人独特の思考方法、情緒だと説明されていますが、宣長は『石上私淑言』に「見る物聞く事なすわざにふれて情こころの深く感ずる事」を「あはれ」と言うと記しています。・・・」
プロト日本文明/日本文明、は、忠孝二元論じゃなく人間主義一元論なのであり、教育勅語は、日本を「根本的に・・・読み違えている」。↓
「・・・根本的に教育勅語を読み違えている<人が多い。>・・・
教育勅語の・・・背後にある構造<を>・・・「忠孝の四角形」と名付けたい。
⇒物のあはれ=みやび心=こよなくあはれ深き心=人間主義!
人間主義社会の特徴であるよ。↓
「・・・島国であり、民族の多様性がほとんどない日本には、コミュニケーションにおいて話し手と聞き手との間の文化的背景の共通性が高いという特徴があります。このような文化をハイコンテクストの文化ともいいます。コンテクストは文脈といった意味です。反対に、異民族どうしが共存しあう国では、正確にコミュニケーションをとるためには曖昧さを排除して言語化する必要があります。これをローコンテクストの文化といいます。 そして日本は世界で最もハイコンテクストな文化をもつ国といわれているのです。そうした文化だからこそ伝えられる、言葉にならない暗黙知が、たとえば職人や芸事の世界では師匠から弟子へ受け継がれていきました。芸は教わるものではなく見て盗むもの、といわれるのがそれです。・・・」
全部間違い。
「科学の正義」を実現する、人間主義(他人を慮れ!)、の一択!↓
「・・・「3種の正義を追い求めようとしたとき、人間の思考は次のような主義に行きつく」
(1)「平等の正義」を実現するには → 功利主義(幸福を重視せよ!)
(2)「自由の正義」を実現するには → 自由主義(自由を重視せよ!)
(3)「宗教の正義」を実現するには → 直観主義(道徳を重視せよ!)・・・」
<非人間主義者だって人間主義社会に住んでると人間主義的な人間になってくってこと。↓>
「・・・人はいつも近くにいる人間に似てしまうのでしょうか。
これは、脳の中のミラーニューロンという神経細胞が大きく関係しているのではないか、といわれています。
ミラーニューロンとは、イタリアのジャコモ・リツォラッティらのグループが1990年代サルの実験によって発見したものです。・・・」
こん中にはズバリは出て来ないのが残念だが、イギリス人の人間主義度は日本人に次ぐ世界第二位、ちなみに、ぐっと下がってだけど、第三位は漢人(明日公開の私の「講演」原稿参照)、ってのが私の見解。↓
「イギリス人が「日本人と似ている」と感じた、意外な共通点と国民性・・・」
このような意味での性善説、性悪説は、どちらも、部分的にしか正しくないという意味では間違い。人間主義が毀損している社会においては大部分の人間が非人間主義者だし、毀損していない社会においては大部分の人間が人間主義者、という認識が正しい。>
「・・・孟子<の>・・・性善説・・・は「人間は生まれつき身の回りの人間関係に心を配り、正しい言動をとる能力があるものの、それは年齢を重ねるにしたがってダメになる場合がある」と言っている<ところの、自己責任説な>のである。・・・」
人間主義者(縄文人)はリスク回避的な非集団主義者。だからこそ、社会は停滞し平和になる。↓
「・・・日本人は自分がもっとも得をするようには行動せず、自分が得をすることよりも、相手のタダ乗りを許さずに、少しでも相手の足を引っ張ろうとする傾向があります。こうした経験をしてしまうと、タダ乗りを狙っていた人も次回からは参加せざるを得なくなる。したがって、日本の社会では、みんなが仲良く協力的に事に当たっているのではなく、協力しないと罰を受けると分かっているから協力せざるを得ない社会だということが示唆されます・・・」
→ 「・・・日本人は「不安遺伝子」と呼ばれるセロトニントランスポーターSS型を持つ人の比率が、他の国に比べて圧倒的に高いのだ。・・・
SS型は不安を感じやすいだけではなく、他人に対して言葉による攻撃をしやすい傾向にあることも分かっています。つまり、遺伝子的にも日本人は他人に与える罰が過激になりやすいと言えるのです・・・
こうした歪んだ悪意や、そこから生じる正義中毒を防ぐためには、意地悪な行動に見返りを与えないことだ。しかし、不特定多数の人々による自由な交流を最大の目的とするSNSでは、それを制限することは難しい。・・・」
→
⇒概念整理をしておきましょう。
本来の意味の個人主義(/indivitualism=資本主義/capitalism))は、アングロサクソン文明の最もユニークな特徴であり、親とか子とか家とか氏族といったものに基本的に拘ることなくあらゆる意思決定を自由に行うことができる、という、ある意味、異常な主義です。(コラム#省略)
そうである以上、集団主義は個人主義の対置概念としては必ずしも適しておらず、従って、集団主義の対置概念として、この前、私は初めて非集団主義、という言葉を用いたところです。
この非集団主義性において、日本の縄文人は米国人一般よりも強いことが明らかになっています。(コラム#省略)
このことから、私は、非集団主義性世界一を競っているのが、アングロサクソン(個人主義人)と縄文人である、と考えるに至っています。
そして、前者は人間主義的者であり、後者は人間主義者です。
但し、アングロサクソンは、有事においては集団主義者へと変身を遂げるのに対し、縄文人には平時と有事を区別する観念、というか、有事概念、を持ち合わせていません。
また、弥生人・・日本列島渡来人たる弥生人のことではない!★・・の典型として私のイメージにあるのは、一つは遊牧民であり、もう一つはゲルマン人です。(コラム#省略)
私は、アングロサクソンの、平時の人間主義的な個人主義、有事の非人間主義の集団主義、なる二面性は、前者はケルト系の多数派の影響力がリードし、後者はゲルマン系の少数派の影響力がリードすることによって形成された、と、見ています。
普通人は、アングロサクソンでも弥生人(★)でも縄文人・・弥生的縄文人を含むが、弥生的縄文人は、弥生人を演ずる縄文人・・でもない人々であるところ、このうちの弥生人も縄文人も普通人も、いずれも個人主義者ではありません。
⇒漢人の阿Qを私が一般化した一族郎党命主義の人々こそが普通人です。
阿Qは、魯迅が、大部分の日本人・・縄文人(人間主義者)・・との対比において作った言葉だと言ってよいと思いますが、阿Qないし一族郎党命主義者という言葉を、対弥生人、対アングロサクソンの文脈で用いても可だと思います。
一族郎党の範囲はTPOによって様々であり、擬制によって理論上はその範囲に限界はありませんが、いずれにせよ、多くの場合、その範囲は同一の広義の宗教ないしその宗派を信奉することで画されます。
この普通人は、一族郎党内においては縄文人、一族郎党外に対しては弥生人、と言えそうです。
蛇足ながら、ロシア人は、広義の精神疾患によって弥生人化してしまっている人々、といったところでしょうか。(太田)
他方、仁徳天皇の上記仁政や即位を弟と譲り合ったという話が『日本書紀』に載っており、
→
程顥は、その中の、「「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから、人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは、自分が貧しいのと同じである。・・・」という仁徳天皇の言、も目にしていて、儒教に言う聖人の統治を、支那で本当の意味で実践した王や皇帝はいなかったけれど、日本にはいたこと、だからこそ、王統も臣下も万世一系である・・臣下がそうであることの方が重要かも・・ことに改めて深い感銘を受け、その背景にあるものを追求し、唐に留学した空海や円珍や安然が、支那仏教が唱えた「草木国土悉皆成仏」(注46)・・(私の言う)人間主義・・の思想に強い興味を示していたということを聞き及び、それを儒教の言葉に置き換えて主唱したのが、「万物一体の仁」だった、と、私は想像するに至っている。
⇒孔子が追求した「仁」は、イエスが追求した「愛」より、人間主義の観点からは、よりまともではあるけれど、両者が似通っている部分もある(後述)ことから、康有為のこの試みは理解できないわけでもありません。(太田)
女性は本来的にも実際にも普通人、男性は本来的には人間主義者、からくる違い、というのが私の仮説。(次のオフ会「講演」原稿参照。)↓
「・・・女性に比べると、男性のおひとりさまはメンタルを病んでクリニックを受診する確率が圧倒的に多いそうです。・・・」
さて、私の作った人間主義という言葉を使いますが、その上で、私見では、孔子の仁/汎愛≒人間主義、である一方、墨子の兼愛は、彼の言う義の統一がなり、この義が統一国家の成員全員に共有された暁における成員間の無差別の愛を意味するのであって、人間主義とは似て非なるものである、と、考えるに至っています。
つまり、墨子は、仁=汎愛、ではなく、仁=別愛、である、と、誤解してしまった、と、思うのです。
⇒⇒要は、孔子の君子は私の言う縄文人(人間主義者)、小人は私の言う普通人、である、と言うのが私の考えなのです。
「利他的行動は自分に何らかのコスト(時間、労力、お金、など)を負いながら他者に利益を与える行動を指す。・・・
ヒトだけが“直接のお返しを期待できない血縁関係にない他者”にも利他的行動を示すと言われ<る。>・・・
利他的行動を促すメカニズムとして・・・<第一に、>他者を助けることが自分の喜びになるという“温情効果(warm glow effect)・・・があげられる。・・・<実際、>利他的行動を行っている時には眼窩前頭前野や線条体と呼ばれる報酬に関する脳部位が活動する<。>・・・<第二に、>自分の評判を良くしようという動機・・・があげられる。・・・<実際、>他者から見られている状況で寄付をする場合と誰にも見られていない状況で寄付をする場合とを比較すると、見られている場合に線条体がより活動する<。>・・・<第三に、>共感・・・があげられる。・・・<実際、>左島皮質は自分が痛みを受けた場合に・・・活動を示す<が、>・・・他者が痛みを受けているのを見た時に<も>左島皮質の活動が高い個人ほど後にその他者を助ける<。>」(※)
→
オキシトシンの作用がもたらす育児がらみの言動、より一般的に言えば家族関係がらみの言動、それ自体は、必ずしも利他的行動/人間主義的行動とは言えないのかもしれないところ、「※」中の、第一と第三のメカニズムは、間違いなく、私の言う人間主義のメカニズムである、と、言えそうであり、大乗仏教の核心は、第一のメカニズムを意識的かつ頻繁に働かせることで、第三のメカニズムの活性化・強化を図ることが可能であると考え、これを促したところにあると言えよう。
ここで銘記すべきは、既述したように、「仁」は、人間のみならず、生き物全般、更には自然、までも包摂する「人間主義」よりもはるかに狭い、「人間の人間主義」である、という点だ。
「子曰く、唯女子と小人とは養い難しと為す。之を近づくれば則ち不孫なり。之を遠ざくれば則ち怨む。」(陽貨第十七 25)
→
⇒これは、普通人(非仁者)の属性を端的に示した一節であるところ、ここから、女性は本来的に小人(普通人)なのであって君子(=仁者=縄文人)にはなれない、と孔子が考えていたことが分かる。
この種の女性蔑視は、遊牧民出身の周の家父長制のコインの半面とも言えるわけだが、狩猟採集民出身の殷の人々が本来は男女平等観を抱いていたと思われるにもかかわらず、しかもその殷の「嫡流」であるにもかかわらず、孔子は、本件に関して、一切、韜晦しようとさえしなかったわけだ。
(孔子が一種の仏教上の変成男子
→
論的なものを抱懐していたとすれば、若干話は違ってくるが・・。)
いつものようにポリティカルコレクトネスを完全に無視して私見を書くが、私は孔子の見解に基本的に賛成であり、科学用語を用いて敷衍すれば、普通人の方が縄文人等より生物としてはより健全なのであって、女性は基本的に普通人以外になれない存在であるところ、女性なるものは、自分自身、及び、自分自身の延長であるとDNA/ホルモンによって彼女が錯覚させられているところの自分の子、並びにそれらの健康・財産の維持・増進に寄与すると彼女がみなす他人、の、健康・財産の維持・増進、だけしか眼中にないように設計されている、ということではなかろうか。
つまり、女性は、縄文人のみならず、健康(生命)へのリスクが高い弥生人にも、縄文人と弥生人のリスクをどちらも背負うところの、縄文的弥生人にも弥生的縄文人にも、ならない、というか、なれない、と。
もちろん、人間界のあらゆることには例外が存在する、ということをここで強調しておきたい。
儒者にとって仁は倫理の根源、根本であるところ、私見では仁とは私の言う人間主義のことであり、かつまた、人間主義性は本来人間全てに、少なくとも潜在的には備わっているのだから、どんな社会にも数はともあれ人間主義者はいる可能性はあるが、仮にいたとしても、それは聖人などという仰々しい存在ではありえないところ、そのことはさておき、朱子の言うように「読書」しても人間主義者になどなれないのであって、日本のような人間主義社会に住んで自分以外の大部分の人々・・人間主義者達・・の言動を「観察研究」しただけでも駄目なのであって、この「観察研究」を踏まえ、自ら人間主義的言動を行い続けることによって、初めて人間主義者たりうるのであるし、また、王陽明ご推奨のように、「私欲<を棄てること>」によって人間主義者になろうとするのも易しいようで難しいのであって、人間主義者達の言動を観察研究したことを踏まえて(それが回り回って実は自分の為になる、つまり、「私欲」を昇華的に成就させることに繋がる、ということを信じさせつつ)自ら人間主義的言動を行い続けるよう促すことこそが真の易行の薦めであると言えよう。
これは、過去の儒者達自身と同じく、現在の儒教研究者もまた、仁論について、形而上学的なアプローチをすることに終始してしまっているからだ。
それでは、分かりにくい上、不毛な成果しか得られないと思う。
私のように、経験科学的・・私の人間主義性概念は、経験科学的概念だ・・にアプローチすることを、彼らに強く勧めたい。
その通り。↓
「・・・大乗仏教は、自利と利他が両立した状態「自利と利他の一致」を理想としています。
ですから実は、日本で美徳とされがちな自己犠牲や滅私奉公の精神は、本来の仏教的な意味では利他といえません。なぜなら、自分が犠牲になったら、自分とイコールでつながる他者も犠牲になってしまうからです。
仮に自己犠牲による利他が成立しているように見えても、それは一時的な場合で、長期的にはバランスが崩れてしまいます。
反対に、他者を犠牲にして自分の利益だけを考える我利我利亡者も、論理的にあり得ません。
自分が幸せになりたいのであれば、自分とイコールでつながっているすべての他者の幸せを考え、その実現のために判断・行動する。これが、大乗仏教における利他の真理です。・・・」
以上のように、ナザレのイエス・・史的イエス・・は、ユダヤ教の改革を期し、
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古典ギリシャの(プラトンやクセノポンが描いたところの)ソクラテスの諸主張を採用しつつ、ソクラテスが帯びていた弥生性についてだけは完全に否定し、逆張りして、敵を愛せと唱えて人間主義(=慈悲≒仁)とは似て非なるものであるところの、愛=利他主義、を推奨し、後に、ユダヤ教由来のメシア/キリスト、と呼ばれることになった人物だ。
(利他主義が人間主義に反することは、コラム#14143参照。)
この結果、日本においては、弥生性を帯びた武家が縄文性を帯びた縄文人たる民衆を統治する体制が構築されたのとは違って、地理的意味での欧州では、弥生性を帯びたゲルマン人が民族大移動の結果、そこで権力を掌握して担い、ローマ時代以来の縄文性を帯びた、そして西ローマ帝国崩壊後に権力の軛から脱したところの、カトリック教会、が権威を担い、この分立した両者がせめぎ合いつつ、これまたローマ時代以来そこにいた普通人たる現地民衆を統治する体制が構築された。
この日本の体制と地理的意味での欧州の体制の成立時期は、前者は12世紀末、後者は5世紀末だったが、前者は17世紀初には内戦状態を脱してしまったのに対し、後者では20世紀央まで内戦状態が続くことになった。後者における著しい科学技術の発展とほぼ全世界支配はその論理的帰結だった。
イエスは、結果として、彼自身が全く意図しなかったところの、地理的意味での欧州の全世界の中での相対的な著しい隆盛、をもたらした、というわけだ。
(なお、極度に単純化して言えば、正教が普及した地域では、上記分立が生じなかったため、縄文性が勝った方の東ローマ/ビザンツ帝国は徐々に衰退して消滅し、弥生性が勝った方のモスクワ大公国/ロシア帝国は侵略行為が習いとなり、途中でモンゴルの軛症候群に罹患してそれが更に嵩じた揚げ句破綻して消滅寸前の現在その断末魔の醜態を晒しているわけだ。)
私は、長江文明の江南人は、第一に、稲作の生産性が高く江南人同士で奪い合うインセンティヴが低かったこと、第二に、南蛮は文化が未開な上過疎だったことから脅威にならず、また、第三に、黄河文明は、上述したように、北狄、西戎といった外からの脅威、や、とりわけ邑制社会が形成されて以降は相互の内からの脅威、への対処に追われて、長江文明社会は黄河文明社会に比べれば人口が相対的過疎であったにもかかわらず、江南文明社会へ勢力を伸長させようとはしなかった、ことから、基本的に私の言う、縄文人(人間主義者)であり続けることが可能であったと見ているところ、このうち、黄河文明との境界地域に住んでいた江南人だけは、黄河文明の縄文的弥生性の影響を受けて弥生的縄文人化し、その中から、邑制社会国家たる楚や呉越が生れたり、朝鮮半島南部経由で、或いは直接、日本列島に侵攻的移住をしたところの、日本の歴史上の弥生人が生れた、と、考えるに至っている。(太田)
とまれ、私が人間主義(人間主義性)と名付けたところのものに、殆ど日本で初めて、名を付与した・・しかも、どうやら5種類も!・・宣長は、それだけでも、賞賛に値する。(注56)(太田)
次に、非集団主義だが、一方の集団主義がなんであるかを考えれば分かるのであって、集団主義というのは他人のために自己犠牲を強いられるわけだ。
その上でだが、非集団主義には、個人主義と人間主義がある。
前者では、平時は自己犠牲ゼロ、有事は自己犠牲を強いられる、のに対し、人間主義では、自己犠牲することなく、平時も有事も自分と他人と双方が裨益するように心がけるわけだ。
ところで、この人間主義についてだが、人間主義社会が成り立つためには、(安全保障の問題が解決したとしても、)その社会の平均的IQが高くないとダメなのではないか、という気がしている。
B:前に自分がそういう趣旨の話をしたら、太田さんに言下に否定された。
O:そいつは失礼なことをした。
けれど、清掃それ自体について、縄文人・・日本人の大多数・・は強い思い入れがありますからねえ。
禊って、基本、自然・・非生物全般・・に対する片面的人間主義儀式、だと捉えていますが、清掃も禊なんだろうな、というのが私の認識です。
そこでの私の書き方がマズかったですね。
ケルト人が男女平等で女性に性的自由があり、相互に戦争はあったもののスポーツに近かった、
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といったことから、私は、ケルト人が縄文人的(人間主義的)な人々だと受け止めていて、個人主義者達で非人間主義的だったアングロサクソン(ゲルマン人)が大ブリテン島にやってきた時に、原住民のブリトン人(ケルト系)の人間主義「的」性に影響されて、平時だけはブリトン人的(縄文人的=人間主義的)になった、という趣旨のことを書いたつもりなのです。
補足ですが、ゲルマン人たるアングロサクソンは、大ブリテン島の主要部分を、そのローマ化の期間が短くローマが撤退した後にしばらく経ってから占拠し、ケルト人たるブリトン人を支配するに至ったのに対し、大ブリテン島以外のローマ帝国に侵入したゲルマン人は、ケルト人居住地域のケルト人をも支配こそしたけれど、こちらの方のケルト人はローマ化してしまっていた、という違いがあります。
で、その古代ローマ人なのですが、「氏族の長は、法により制限されるようになるまでは、奴隷を含む氏族の構成員に対する生殺与奪の権利(ius vitae necisque)を有していた。家父長制(パトリアーキ)や、明治から昭和前半の日本にあった家制度でいう家督に似る。」
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というものであったので、ブリトン人とは違って、それ以外のケルト人は、人間主義性を失っていた、と、私は考えているわけです。
引用第一、第二段落は全部マチガイ。
まともな世界観、思想は人間主義だけ。↓
「・・・今の世界を見渡すと、世界観、思想をもっているのは、アメリカと欧州だけです。彼らは、自由、民主主義、人権などを掲げています。・・・
<ところが、>「中国には超大国、世界覇権国家になるための世界観、思想が存在しない」のです。・・・
<どこの国にも多かれ少なかれナショナリズムはある。問題は、インドが中共同様、人間主義を追求するかどうか。↓>
インドはどうでしょうか?インドのモディさんは、「ヒンズー教」を優遇する「インド・ナショナリスト」です。だから、インドは、人口、経済力、軍事力が世界一になっても、「超大国、世界覇権国家」になれないのです。・・・」
(人間主義(にんげんしゅぎ)はヒューマニズムの訳語だが、私の人間主義<(注7)>(じんかんしゅぎ)は「人は人間(にんげん)関係においてのみ初めて人であるという考え方」(コラム#113)であって、それとは全く異なったものであることに注意。)
(注7)人間主義的とほぼ同じ意味を持つ言葉:真心(まごころ)、もののあはれ(ここまでは本居宣長の用語)、大和魂(紫式部)、たおやめぶり(賀茂真淵)=惟神(かんながら)の道(不明)(コラム#14163及び下掲
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⇒そうではなく、日本人達が、自分達が当たり前のものとして備わっているところの、名前はないけれど、私が言うところの人間主義に近似した概念を、支那に関しては孔子が唱えた仁において、また、インドに関しては法華経が唱えた慈悲において、見出した、ということ、以上でも以下でもないのであって、後に知るところとなったキリスト教に関しても、イエスが実践した利他(注56)、を、人間主義に似通ったところがあるものとして見出したと思われます。
普遍性の度合いは、極端に単純化すれば、人間主義(inter-human-ism)>個人主義(individualism))/集団主義(groupism)>全体主義(totalitarianism)>階級制(hierarchy)/カースト制(caste system)>一族郎党制(clan system)・・いずれも後で説明・・、なのであって、これは、自然性の度合いの順、ないしは、作為性の度合いの逆順、である、と、私は考えている。)
人間主義社会は、平均IQの低過ぎる社会では本来的に成立困難、ということが示唆されるな。↓
「・・・長い間、専門家はIQと感情的知性(EQ)は別物と考えていました。しかし、最近の研究では IQが高い人は特に共感性に関して高いEQを持つことがわかっています。
知能の高い人は、他の人たちのニーズに敏感に反応して行動するため、ニーズや感情に同調するのが得意です。・・・」
しかし、このアトムの行為やグスコーブドリの行為は、利他主義
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の極致とも言うべき自己犠牲・・何らかの目的や他者のために、自己の時間・労力・身体・生命をささげること・・であって、それを眼目とするキリスト教の信徒であった山本周五郎の『樅の木は残った』
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の主人公の原田甲斐の最期における自己犠牲、
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と、表見的に類似した諸行為ではあるところ、それは自分と他者とを同時に裨益させることを基本とする人間主義の非常時における例外的発現形態なのであって、例えば、宮沢賢治の作品で言えば、「技量の未熟なチェリストが、動物たちとの交流により演奏技術を向上させる姿を描く・・・『セロ弾きのゴーシュ』」の主人公たるゴーシュと動物たちの物語
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こそ人間主義の基本な姿を描いた物語であることに注意が必要だろう。
ミノアと日本の文化には驚くべき類似性がいくつかある。
⇒縄文文化、及び、私の言う、(中原文明/漢人文明の縁辺に位置した)プロト日本文明、日本文明、の通奏低音は人間主義文化ですが、縄文文化においては軍事力はなく、プロト日本文明においては軍事力は弱体であったけれど、日本文明においては第一次弥生モードの時は陸軍を中心に軍事力は強大、第二次縄文モードの時は軍事力は弱体、第二次弥生モードの時は軍事力は強大であり、(チグリス・ユーフラテス文明/エジプト文明の縁辺に位置した)ミノア文明は、人間主義的文化を持っていた点でこそ日本列島の文化/文明群と似通っているけれど、一貫して陸軍力は小さく海軍力は強大であった点では異なります。
とまれ、私が、ミノア文明の故地に土地勘があるというのに、同文明のことを今まで失念していたことは迂闊でした。
なお、インダス文明は、人間主義文化を持っていた点でも、軍事力がなかった点でも、縄文文化と極めて似通っていることはご承知の通りです。(太田)
日本人<は>一方ではかなり排外的でありながら、他方では驚くほど外来思想に対して開放的である・・・。
要するに日本人は自己のアインデンティティーを追求する次元では排他的であり、その他の次元では開放的なのである。
⇒プロト日本文明/日本文明の日本人は、基本的に、人間主義という普遍的な価値を体現していることから、この価値に抵触する宗教や思想やイデオロギーに対しては「排外的」ですが、それ以外のあらゆる外来の宗教や思想やイデオロギーに対して開放的なのです。(太田)
外国人の場合はその逆である。
すなわち、われわれは外国の思想や言語の無制限な導入には抵抗する。
それはわれわれの知的なアイデンティティーを脅かすからである。
しかし、われわれは外国人が自分たちに混って生活しようが、一緒に働こうがあまり気にかけない。
つまりわれわれは人間関係のレベルでの混乱は、それほど気にしない。
⇒普通人や弥生人にはその逆が成り立つというわけです。
また、日本人が、普通人や弥生人と「混って生活し」たり「一緒に働」いたりすることに抵抗を覚えるのは当然です。
だからこそ、日本人は移民の受け入れに極めて消極的なのです。(太田)
⇒日本人は基本的に人間主義者であるだけに、短期滞在の場合は普通人や弥生人からなる海外社会へ融け込みにくい一方、帰化する場合は現地の普通人や弥生人の気持ちを忖度して言動を律するように心がける結果、2世の時代には、普通人や弥生人化してしまう結果、人間主義者としての父母のアイデンティティーを早くも失ってしまうのです。(太田)
鶴見和子のいう現代日本が外来思想に対して開放的であるのは、日本文化の大部分が内発的なものではなく、外部からの受容によるものだからであるという指摘も適切である。
⇒「文化」の定義にもよりますが、プロト日本文明/日本文明ないし日本文化のコアにあるのが、内発的かつ普遍的な人間主義である以上、話はほぼその逆であって、だからこそ、日本人は、自信を持ってありとあらゆるものを「外部から・・・受容」できたのです。(太田)
⇒狩猟採集時代の人間社会は基本的に全て人間主義社会だったと考えられる以上、平均知能がある程度高い社会でないと人間主義的社会は成立しない筈がない一方で、ある程度高い社会であることが日本文明社会が成立するための必要条件である可能性がありますが、後者についての私の考えはまだ定まっていません。(太田)
⇒日本人に関しては、ベネディクトの話は真逆なのであり、作田や濱口の主張すら間違いなのであって、一般には、罪の意識は、宗教的/思想的教義ないし法律によって「外」から付与されるのに対し、日本人の場合、恥の意識は、人間主義なる人間の本然的本来的原始規範・・本能!・・によって「内」から湧き上がるのです。(太田)
その上で、それが対比される相手は個人主義に限りませんが、私の言う人間主義の中核的な諸点は、第一に、それが、日本(や「東洋」?)独特の対人関係などではなく、かつては普遍的な対人関係であって今なお本来的な対人関係である点、第二に、常に他者も自分も共に裨益するよう心掛ける点、そして、第三に、その他者に、人のみならず生きとし生けるもの全て、ひいては自然、まで含まれる点、なのであって、浜口の間人主義は人間主義の一部分、一側面に過ぎないのです。(太田)
⇒私は、罪の意識は、日本人の場合は人間主義に基づき自律的に、一神教の社会の人の場合は神の照覧下に他律的に、生じ、それ以外の社会の人の場合は基本的に生じない、と考えているわけです。(コラム#省略)
⇒日本人の大半は、自分が私の言う人間主義者であるという潜在的自覚を抱いていても不思議ではないのであって、そうだとすれば、対内的対応をとろうとすることは基本的にありえないわけです。
日本人における、「神道をプロトタイプとする宗教行動」は、単に、自分の願いを他人にも認識してもらうために表明する行動でしかなく、また、「他の形態の対外的対応」は、自分が他人に人生相談に乗ってもらう行動の簡易型ないしゲーム化でしかない、というのが私の見方です。
例えば、平安時代真っ盛りの時代に生きた藤原道長ですら、加持祈祷の効力なんぞホンネでは信じていなかった(コラム#14625)ことを思い出してください。(太田)
いつの間にか、木村自身が持ち出していたところの日本の御先祖様に対する「垂直線上」の道徳律の話が引っ込んでしまっているように思いますが、それはともかく、要は、前述したように、日本人の道徳律は、宗教的なものとは本来無縁の人間主義性なる本能に根差す自律的なものであって、日本人は、水平面、垂直線上、の双方、つまりは、時空全般に「存在論的な負い目」を感じているのに対し、西洋人の道徳律は、キリスト教の神に命じられた宗教的な、従って他律的な、ものであるため、垂直線上にのみ「存在論的な負い目」を感じるのです。(太田)
2万年前でも、1万2000年前からの農業革命(農耕革命=Neolithic Revolution)より前だから、狩猟採集時代だっていうことになるが、一体、当時の人間は人間主義者だったのか否か、それが問題だ。↓
「・・・500万年前、人類は協力がもたらす利点を発見した。しかし、協力はつねに犠牲を伴い、非協力的な態度のほうが有利となる。進化的な安定を得るために、人類は協力行動を小さな集団のみに制限する必要があった。人類は「我々」と「彼ら」を分ける心理を身につけ、「我々」に対してのみ、利他的かつ親切になった。つまり、人間のモラルは自集団に向けられたものだった。・・・」
人間は、さまざまな風土の中で、自己自身をさまざまに風土化(Klimatisieren)する。」(83)
⇒ヘルダーは神学者でもあり、神、と、様々な形で風土化させられた人間諸集団、とを対峙的に対置させていると考えられるところ、私は、人間の本性たる人間主義(縄文性)、と、その堕落の程度に応じた堕落形たるところの、弥生的縄文性、縄文的弥生性、弥生性、とを因果論的に「対置」させている、という点で、大きな違いがあるわけです。
但し、私の場合も、風土を無視しているわけではなく、縄文性、弥生的縄文性、縄文的弥生性、弥生性、それぞれの維持に風土も関わってきますし、弥生的縄文性、縄文的弥生性、弥生性、それぞれの諸タイプの形成に風土も関わってきます。(太田)
人間主義の誕生秘話やな。
人間主義の発生は言語の発生に先行するってことだ。↓
「・・・人類は二足歩行による体型の変化から喉頭が下がり多様な発声が可能になった。これがやがて「言語」の出現につながるのだが、まずその前に、この段階でヒトは「踊る身体」と「歌う身体」を手に入れる。山極氏はこれを、「言葉を獲得する以前の、意味を持たない音楽的な声と、音楽的な踊れる身体への変化によって、共鳴する身体が出来る」と書いている。そしてこの共鳴こそが、人間の共感力の進化の始まりだと氏は考えている。 繰り返すが、他の類人猿にも多少の共感力はあった。しかしリズムに乗って多くの者が身体を動かすといった共感の広がりは人類だけが持つものだ。さらにそこに好奇心、とりわけ他者への関心が加わり、共鳴の輪が広がった。・・・
<なお、ゲラダヒヒの話も面白い。↓>
ゲラダヒヒにはなわばり意識がなく、したがって他のサルに比べても闘争的ではないために、生存競争に敗れ、気候変動などもあいまって海抜三千メートルのエチオピアの高地に追いやられたとされている。・・・力による支配が一般的な他のサルの社会では、細かいコミュニケーションのための言語は必要とされない。チンパンジーやゴリラのようなapeでさえも相手を威嚇するための叫びや、服従を示す鳴き声だけで事足りる。だがゲラダヒヒのような・・・平和な社会を築くためには、どうしても複雑な音声コミュニケーションが必要とされる。現にゲラダヒヒの持つ伝達メッセージのなかには、他者を安心させる、なだめる、懇願するなど、人間で言えば「まぁまぁまぁ」「いやいや、そこはさ」といった曖昧な表現が多く存在する。他のサルのコミュニケーションが、喜怒哀楽といった激しい感情表現のレベルにとどまっているのとは大きな差異がある。・・・」」
さて、「四方拝<(四拝)は>道教や陰陽道の下に成立した儀式であって、本来神道とは無関係な儀式であった可能性もある」とか、「明治時代以前の元旦四方拝の祭器具には「大宋御屏風」があったが、「大宋」とは<支那>南朝の「劉宋」のことであり、漢の天地を祭る皇帝祭祀である明堂祭祀が南朝の劉宋を経て日本に継承された品であると位置づけられること、元旦四方拝の天皇の礼服である黄櫨染御袍は「月令思想」の中央である土王「黄」を表しているとし古代<支那>の皇帝祭祀との関連も指摘されている」
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ということもあるけれど、神道の儀式であって、しかも、その最高の儀式であったと見ていいでしょう。
だからこそ、その儀式は、神社の中心たる柱・・神そのもの!(コラム#14695。なお、コラム#14697も参照)・・に相当する大極柱が建てられている大極殿で行われたのであり、この神社/大極殿の縮小版として、私の言う第一次弥生時代の日本において、武士の居宅が大黒柱(大極柱)が中心に建てられた書院造となり、その発展・普及形が数寄屋造の床柱となった、すなわち、Δ→γ→β→α、という歴史の中に(私がかねてから指摘してきたところの、毀損された人間主義性を日常的に修復するために神社空間を居宅に再現したところの)書院造/数寄屋造の居宅が位置づけられる、というのが、私の最新の見解です。
従って、見えない結界によって外から守られている居宅の中で、帰宅後、速やかに毀損された人間主義性を修復するはずであるところの、成人たる各居住者、は、互いのプライバシーを人間主義的に配慮し合って互いに侵すようなことなどありえない以上は、それぞれに、個室はもとより、鍵のかかる個室、なんぞを設ける必要性はないわけです。(太田)
<どっちも、個人主義を前提としているところの、人間主義に反する謬見。↓>
「・・・リベラリズムの考えでは、個々人が追求するものが「善」であるのに対して、「正義」はむしろ人々の間の公平性と考えられるのです。
こうしたリベラルの「正義」に対して、国家からの介入をいっさい取り払って、より個人重視の、自由な選択を行なおうというのがリバタリアン(libertarian)です。・・・
ロールズが『正義論』を出版してすぐに、その反論を展開したロバート・ノージック(1938〜2002)の議論を見ておきましょう。1974年に刊行した『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで、ノージックは個々人の「別個性」と「自己所有」という考えに基づいて、「自由」の考えをリベラル以上に強調しています。・・・
ノージックは「正義の権原(entitlement、エンタイトルメント)理論」を導くのです。「エンタイトルメント」というのは、「資格」とか「権利」とも訳すことができる言葉です。これをノージックは、所有の正当性を示すために使っています。・・・
これは実際のアメリカ政治では、共和党の経済的な政策(小さな政府)のバックボーンとなっています。・・・」
非人間主義者として生きていくのはラクだが、長い目で見ると、或いは、社会としては・・。↓>
「・・・中国人に「日本はなんでいじめがあるんですか」と聞かれたことが何度かある。「中国ではないの?」と聞き返したら、「中国もありますが、やられっぱなしでも耐えるという感覚はないし、子どもがいじめで自殺する話は聞いたことがない」という。・・・」