支那


コラム#11557(2020.9.26)

 もう一つの問題は、人間主義社会であった日本以外の多くの社会が人間主義的なものを再生させる方法論を追求した枢軸の時代において、人間主義社会であったインダス文明の残滓も持ち合わせていたインド社会を除き、それ以外の諸社会が、正しい方法論に到達できなかったところ、支那の場合は、人間主義性が内在しない人間の存在を認めてしまった儒教(=万物一体の仁を唱えない儒教)が正統性を確立してしまったため、人間主義再生意欲そのものが減衰してしまったまま推移した、という意味でも、仏教が根を張りにくかったことだ。
 (だからこそ、例えば、肝心のヴィッパサナー瞑想が支那には伝わらない、といったとんでもないことが起こったのだろう。)


コラム#14163(2024.4.20)

 私は、孔子(BC552/551~BC479年)

こそ、史上初めて、人間の人間主義性の喪失という問題意識を抱き、その回復手段を提起した人物である、と、見るに至っているわけだ。


コラム#14639(2024.12.14)

 以上から、いささか意外ながら、実は、二里頭文化はもとより、殷についても、外敵不在で無内戦の人間主義社会だった、と、言えるのではなかろうか。
 ヤマト王権の平安京とそれに至るまでの諸首都等、インダス文明諸都市、ミノア文明諸都市、に城壁がなかったことを想起して欲しい。


コラム#14639(2024.12.14)

 で、周は、人間主義社会の殷と同様、シナ・チベット語族系の言語を使っていて、文字も殷のものを踏襲したことから、自身の弥生性にもかかわらず、「人」を「仁」の意味でも使い続けた。
 それに加え、殷の縄文性文化に染まって、弥生性を次第に縄文的弥生性にまで緩和させていき、東周頃までには、支配層は縄文的弥生人化、被支配層は縄文的弥生人からの非人間主義的統治の下で普通人・・孔子の言うところの小人・・化、し、秦帝国/漢時代からは、更に日本の弥生人(弥生的縄文人)の出身でもあるところの、弥生的縄文社会の長江文明の影響を受け、支配層は弥生的縄文人へと弥生性を一層緩和させると共に、被支配層は普通人のまま、という構成となり、支那は、現在近くまで、基本的にそのままの形で推移した、と、私は見るに至っている。