釈迦
「輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素だが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴である。
⇒この全てが方便であって、釈迦は人間に内在する人間主義性を再生させる必要性に気付くと共に、そのための方法論を再発見した、というのが私の理解であるわけだ。(太田)
生きることは苦であり、人の世は苦に満ち溢れている。そして、あらゆる物事は原因と結果から基づいているので、人々の苦にも原因が存在する。したがって苦の原因を取り除けば、人は苦から抜け出すことが出来る。これが仏教における解脱論である。
⇒そういう方便を用いて、人間主義的言動、及び、(サマタ+ヴィッパサナー)瞑想、によって人間主義性を再生させることができる、と釈迦は説いた、というのが私の理解であるわけだ。(太田)
とまれ、釈迦が発見し説明した慧は、私見では、人が人間(じんかん)的存在であることに釈迦が気付き、それを、史上初めて(釈迦なりに)説明したものであって、慧について説明したことだけは、釈迦によるところの普遍的意義のある画期的な業績だったと思う。
注意を要するのは、だからと言って、釈迦は、人間主義を発見したわけでも、いわんや人間主義者になる方法論を発見したわけでも、ないことだ。
そのことを思わせる記述が、諸経典中の釈迦の生涯・・前世における生涯ではない!・・についての記述中に存在しないからだ。(太田)
もう一つ銘記すべきは、釈迦は、衆生に「仏性(ぶっしょう)・・<それを>開発(かいはつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる<もの>・・」
→
があることに気付いておらず、従って、「この仏性が顕現し有効に活用されている状態<たる、>成仏」(上掲)、なる観念
→
とも、「この仏性が顕現し有効に活用されている」ようになること、すなわち、悟り
→
なる観念とも無縁であったように思われることだ。
その証拠に、(釈迦のウィキペディアの記述内容が仮に史実に近いとすればだが、)釈迦は、他人に対して人が人間(じんかん)的存在であるとの説法こそしたけれど、利他行・・私の言う人間主義的営為・・を、その生涯にわたって、一切行わないまま入寂しているし、利他行を推奨したこともなさそう、と、きている。