未整理
⇒このあたりはずっと、珍しいことに、丸山による諭吉の言の紹介ぶりに関して呆れるような箇所はありませんが、さしずめ私なら、以下のようなラインの紹介をしたことでしょう。
(コラム#は全て省略した。)
一、日本文明は、縄文性と弥生性という2要素からなり、そのバランサーとして天皇がいる、という文明である。
二、その政治経済社会体制は、基本的に、エージェンシー関係の重層構造がメイン、市場関係がサブ、という性格を持つ。
この重層構造の頂点には天皇が鎮座し、最高権威を持っている。
通常、天皇とは別に、最高権力者がいる。
但し、権威はこの最高権力者を含む全ての人々が、権力はこの最高権力者以外の(天皇を除く)全ての人々が、分有している。
このような意味において、日本は、常に「価値の多面的分化」した社会だった。
三、縄文性は人間主義に立脚しており、この人間主義は、自立した個人が他の諸個人と互いに忖度し合いつつその言動を律していく、というものであり、忖度する、忖度しなければならない、という意味で「彼我平均」される、という限りにおける「不自由」さこそが、逆説的に、個々人の自立、すなわち「自由」、をもたらしている、と見ることができる。
四、日本史は、縄文性>弥生性、の縄文モードと時代と、弥生性>縄文性、の弥生モードの時代をサイクルのように繰り返してきており、基本的に、縄文モードの時代は内向きで「平和」で「停滞」の時代、弥生モードの時代は外向きで(恒常的「戦乱外戦」状態であるところの「外」の諸文明の部分的継受で弥生性の回復/強化を図る、)「内乱外戦」で「進歩」の時代、である。
五、島津斉彬コンセンサス信奉者であった諭吉は、直感的に以上のことが分かっており、それを、適宜、彼の言葉で彼なりに記している。
<私が補足するならば、前者の背後に人間主義・・政府機能の一端を個々人が担っているとの意識を含む・・、後者の背後に、医師以外の広義の医療従事者が意識と実態において医師同様の機能を果たしていること、が挙げられるだろうな。↓>
「日本で死者が少ない2つの理由「公衆衛生」と「医療水準」・・・」
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それはともかく、日本の医療従事者達にとどまらず、そもそも日本人の多くは人間主義者であるところ、概ねそのことと同値なのだが、私見では、日本人は、多かれ少なかれ、日本という共同体/国の機能の一端を担っているという意識を持っていて、彼らが属する地域や組織もまたそのような意識を持っている。
例えば、町会の当番「ごとき」であっても、その志の高さは相当なものだ。
私の言葉に翻訳すれば、日本では、歴代天皇が人間主義を掲げてきたからこそ、権威の担い手たる皇統が断絶することなく続き、この権威の担い手の下での権力の担い手も、人間主義的統治を心掛けてきたのであり、権力の担い手は人間主義的統治の心掛けが不十分であれば更迭され、権威の担い手すらも人間主義の掲げ方が不十分であれば天皇家の枠内で家系が更迭される、といったところでしょうか。(太田)
<最も興味深いのはココ。
占領下でマッカーサー信仰が一世を風靡したことを思い出すな。
日本人は、権力者が人間主義統治を行うと信じ切ってるんだろうな。
で、その権力者が何人であれ、肌の色がどうであっても、気にしないってこと。
それにしても、米大統領が日本の最高権力者であることを、日本国民はちゃんと分かってるワケだ。↓>
トランプ大統領を最も信頼する国は日本ということが分かった。日本人4人に1人(25%)はトランプ氏が国際社会のために正しいことをすると信じていると答えた。韓国は17%で、13カ国の中間(16%)水準だった。・・・」
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⇒既に記した私の「仮説の仮説」的なものを、この際、少々敷衍しておきますが、「漢字(かんじ)は、<支那>古代の黄河文明で発祥した表語文字<であって、>・・・文字として使用できる漢字ができあがったのは紀元前1300年ごろのことだと考えられる」
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ところ、弥生時代の始まりは紀元前1000年頃であると考えられており、
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この時点で日本列島に渡来した弥生人は華南(江南)出身でもあり、文字を持たないまま、縄文人をエージェンシー関係の重層構造的に「統治」することとなったのではないか、と、私は想像しているのです。
それまで、縄文人は、無政府状態で生きてきていて、初めて統治・・但し、弥生人が縄文人に感化されたところの人間主義的統治!・・を経験させられることになったけれど、稲作技術を引っ提げて渡来した弥生人を歓迎し、この技術を教えてもらった感謝の意を弥生人に贄を捧げる形で現わし、これが習いとなった、とも。
で、後に、漢字を身に着けた帰化人が渡来してきた時以降には、日本列島において、文書も用いる統治が始まったけれど、統治の基本に係る部分については、爾後も文字を介さない、口頭、口伝による統治が続いた、と。
その上で、私が何が言いたいかというと、古代日本の税は全て贄的なものであり続けたのではないか、そして、その後日本列島では初めて戦争のようなものが頻発する時期を経て、天皇家による中部以西の日本列島の一元的統治が確立してからも、天皇のみならず、天皇を含む統治者達の総体が、被治者達に対して、引き続き比較的には人間主義的な統治を続けたところ、その統治は、傍から見れば、「中空、虚政、呪術性、神話的特性」的なもの、より端的に言えば無政府主義的なもの、として映り続けたのではないか、ということです。
なお、天皇家(広義の天皇家である藤原氏や武家の棟梁家を含む)に係る、権威と権力の分離の生起は、このような人間主義的統治という背景がなければあり得なかったことは確かではあるけれど、この両者はあくまで別のことなのではないでしょうか。(太田)
しかし、有事とはいえ、コロナ禍は、外敵が武力侵攻してきたような場合とは違って、内なる敵との戦いであり、(町会等を通じ)殆ど全国民・・しかもその大部分は人間主義者で、平均的な知的レベルも高い・・が統治に携わっている日本においては、中央が脳死状態でも、総体としては概ね適切な対処ができるし、現にできてきている、と、私は考えている。
⇒天皇論、ないし、天皇制論、は、改めて正面から論じられる必要がありますが、鍛代は、秀吉が天下人であった、ポスト戦国時代における「天皇の権能<が>庇護<された>」理由の説明おいて、論理的に舌を噛んでしまっています。
そもそも、そういうアプローチではなく、歴代諸天皇の姿勢と努力に目を向けなければならないのです。
歴代諸天皇の大部分がその努力もあって個人としても尊敬に値する人々であったことに加え、彼らの大部分によるところの、人間主義的統治の標榜と実践、及び、彼らの少なからぬ部分が行ったところの、国家戦略の基本に関する適切な方向性の示唆、が、天皇制の持続をもたらした、と、我々は見るべきなのです。
武家達の任官叙位への憧れ、より一般的に言えば、朝廷の儀礼的秩序への依存、は、その結果に過ぎません。(太田)
筆者が取り上げている業界に関する限りではその通りだ。
上意下達/秘密保全がキモである組織、and/or、軍隊が有事に活動するような過酷極まる環境、においては、人間主義は通用しない。
だからこそ、聖徳太子コンセンサスの下、縄文的弥生人が創り出されたのよね。↓
「日本人の美点「思いやりの心」ほどビジネスに邪魔なものはない・・・
「お客さまに寄り添う」とは人月商売のITベンダーの経営者や、その経営者に洗脳されている客先常駐の技術者らが大好きな言葉であり価値観だ。私が極言暴論で何度「気色悪いからやめろ」と書いても、あるいは面と向かってそう言い放っても、人月商売のITベンダーは根本的価値観として護持し続けている。いやはや、あきれるしかない。・・・」
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日本の歴史は、政府と人民との間で、よりピンポイントで言えば中央政府、は人間主義的統治を行うもの、との信頼関係が確立し維持されてきた歴史であったわけだが、先の大戦に至る戦前史において、日本政府が人間主義的統治の全世界での確立を目指した結果、表見的には短期的に日本国内で非人間主義的統治を行ったが、人民はこれを中央政府の背信行為と捉え、中央政府を(最初は形式的に、後には実質的にも)廃絶してしまった
とまれ、私は、一、上下意識を一旦捨て去り、普遍的な概念で日本文明を描写できないか、二、その過程で、ベネディクトが提起した日本文明の菊と刀という二面性について、そのよってきたるゆえんを説明できないか、三、直感や偏見に基づく上下意識ではなく、普遍性度でもって諸文明の格付けができないか、という問題意識を抱き、その全てについて、概ねこの順序で、次々に、私なりの一応の結論を出すに至った次第。
簡単に言えば、一については、二面性が最も鮮明なのはむしろアングロサクソン文明の方なのであってそれは平時/組織外の個人主義と有事/組織内の集団主義で特徴づけられるところ、その対蹠に位置づけられるのが、濃淡はあれどおしなべてエージェンシー(人間主義)関係の重層構造で社会が構成されてきたところの日本文明なのであり、二については、結果として人間主義の縄文性と非人間主義の弥生性(後に縄文的弥生性)という私の二面性的な日本文明論の形成に繋がり、三については、大昔の狩猟採集社会は基本的に人間主義社会だったという私の認識が正しければ、人間主義を基調とする日本文明は、縄文的弥生性というこの文明消滅防止「手段」も備えていることから、アングロサクソン文明よりも(その普遍性度において)優位にあるということになる、といったところか。(太田)
欧州はさておき、個人主義/集団主義の原理しか基本的に持ち合わせていない英米は、全球的な意味では真の自己批判などできない。
また、台湾/韓国は、旧日本帝国域内国であり戦後も日本の隣国だったことから原理云々とは関係なく経済が発展し、日本は縄文的弥生人が縄文人を指導して人間主義の原理に基づく高度経済成長体制である日本型経済体制を構築し、中共は、この日本型経済体制を(縄文的弥生人集団たる)中国共産党が阿Qを縄文人へと変革を試みつつ構築した、ということ。↓
⇒1935年(昭和10年)秋に日満財政経済研究会(宮崎<正義>機関)を作ったのは当時の参謀次長の杉山元である、と以前(コラム#10367で)指摘したことがありますが、「戦争指導計画書」は、日本の来るべき総動員体制の設計図であり、日本の総動員体制≒戦後の経済高度成長体制、なのであって、個人主義/集団主義、ならぬ、人間主義・・この場合はエージェンシー関係の重層構造(コラム#省略)・・、に立脚したものであって、集団主義に立脚したコミュニズム計画とは似て非なるものである、ということが、(自分が仕えた)田中義一の頭の良さに驚嘆できる程度の頭脳は持ち合わせていた殖田(コラム#12833)でも全く理解できなかったのでしょう。
利益至上主義じゃない(企業存続にこだわらない)=人間主義(結果として長期企業存続)だということ。↓
「なぜビッグモーターは「現金一括払い」を嫌がったのか…「利益至上主義」の会社が経営に行き詰まる根本原因・・・」
縄文的弥生人による人間主義的統治。↓
「鎌倉時代を生きる人々を襲った寛喜の大飢饉(1231年)は、日本国の人口の3分の1が死に絶えたと言われるほどの凄まじい飢饉でした。飢饉に際会した人々の間には「人身売買」が横行します。朝廷は人身売買を禁止する原則を崩しませんでしたが、鎌倉幕府はそれを容認したのです。・・・
飢饉が終わると、飢饉当時に安値で売却した妻子などを取り戻そうとする動きが起こります。そうした訴えが幕府になされることになるのです。売主と買主との間で揉め事も発生していたと思われます。幕府はそうした訴えにどう対処したのか。延応元年(1239)4月17日の「追加法」によると「売主が飢饉当時の値段で買い戻すことは認められない」としています。ただし「売主と買主が合意の上で、現在の価値に換算して買い戻すことは問題ない」とも付記しているのです。飢饉の際に人身売買を禁止することはかえって民衆のためにならない、民衆の嘆くところとなる。そうした観点から、幕府は人身売買を認めていたのです。飢饉に喘ぐ民衆を救いたいという幕府執権・北条泰時の想いがそこに反映されていたと思われます。」
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「寛喜4年(1232)3月には、伊豆国仁科荘の「土民」が飢饉により餓死してしまい、農業が出来ない状態になっているとの嘆きが、泰時に寄せられています(『吾妻鏡』)。泰時はこの報せを得ると、米30石を荘民に貸し与えることを命じます。しかし、荘民も困窮の極みです。貸し与えられても、返済できないこともあるでしょう。そうした際には、泰時の負担で返すようにせよと、彼は家臣・矢田六郎兵衛尉に命じています。『吾妻鏡』は、泰時の人格の高潔さを記していることが多いですが、この逸話もまたその1つと言えるでしょう。ちなみに泰時は、前年(1231)3月にも、伊豆と駿河国の領民に米を貸し与える命令を出しています。」
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なお、私に言わせれば、日本の国体は人間主義で天皇はその人間主義の象徴、で終わりです。(太田)
⇒日本におけるエージェンシー関係(前出)は、人間主義者同士の全人格的な関係であり、そんな関係を契約の形で規律しようとすれば、無限の分量になってしまう恐れがあるので、「日本のビジネスの場で用いられる契約書は、簡素かつ形式的なものが一般的になってい<る>」し、「「紛争が起きたときは話合いで解決する」といった規定を設けることがよくあ<る>。」
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前者は、「契約書が形式的なものとなっている理由は、交渉により互いの関係が険悪になるのを避けたいという心理があるからだと考えられているよう<だ>」(上掲)し、後者は、「裁判を避けるためのルールであり、できるだけ話し合いで解決したいというマインドがうかがえ<る>」(上掲)、というわけです。
この契約と同じことが、人間主義者たる政府が大部分が人間主義者たる国民を規律する法についても言えるのであって、だからこそ、基本的に日本では、「法は・・・厳密な運用を想定していない」
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のです(注23)し、法の法であるところの憲法についても、非厳格な運用であるところの解釈改憲でもって対処され、改正されることはないわけです。(典拠省略)
⇒クラークの用語はともかくとして、感情面も重視した組織経営の必要性、重要性が欧米において強調されるようになっているのは確かのようです。
しかし、日本における組織経営は、「感情面」を重視しているというよりは、人間主義性という、人間の本来的「本能」を重視したもなので、クラークの言っていることは的外れであるというべきでしょう。(太田)
つまり、われわれのほうがかえって日本的になろうとしています。
日本の経済成長を見せられて、われわれとしても、どうしても説明しなければならなくなったのです。」(73~74、76)
⇒日本的経営は、匠を生みかつ維持し易く、そして、長寿企業をもたらし易いけれど、およそ経済成長とは無縁なのです・・経済成長の源泉は戦争対処です!・・が、そこのところを、クラークを含め、欧米人達は全く理解しておらず、結果は、マインドフルネスなるインチキ仏教崩れの無用無益の暇つぶしの流行をもたらしただけに終わっている、というのが私の見方です。(太田)
「・・・日本人はもともとはなまけ者だったんです。・・・
とくに日本人の学者や日本の役所を見たら、ほんとに欧米だったらまったく許せないくらいなまけています・・・。・・・
まわりの人と人間関係をつくる、守る、そのために働く。・・・
⇒私自身の実経験に基づき、文献典拠抜きでクラークのこの主張を是とすることにしようと思いますが、私見では、日本人は、欧米人等とは違って、組織内での言動と組織外での言動とを異なるものにする必要がないからなのです。
例えば、イギリスでは、人は組織内では弥生人で上意下達者、(家庭内を含む)組織外では個人主義者、ですし、(イギリス以外の)欧州では、人は組織内では弥生人の上意下達者、(家庭内を含む)組織外では普通人、ですが、日本では、人は組織内外に関わりなく、人間主義者で通すわけです。
常に人間(じんかん)に気配りをすることはもちろん、メリハリをつけた言動をすることにも心がける、もちろん働きづめなんてことはしない、というわけです。(太田)
Yes,but・・・.↓
「・・・日本では、外来法に由来し、あるいはそれから発展していった正規の法、つまり制定法(ないし判例法)は、基本的に統治と支配のための法であって、それらと人々の意識との間には、常に、大きな「溝、ずれ」があったといえる。 いいかえれば、一握りの為政者を除く多くの日本人にとって、法は、みずからの意思で築き上げ、あるいは獲得したものというよりは、むしろ、その時々の事情により天から降ってくるようなかたちで与えられたものであった。だから、日本人の大多数にとっては、法は、常に、「疎遠なもの、よそいきの言葉や衣服のようなもの」であり、法の国民的・市民的基盤は弱かった。 特に、欧米の影響が強まるとともに、西欧的近代法の「建前」の裏に統治と支配のための法という「本音」が忍び込ませられた明治時代以降については、ある意味、先のような溝、ずれがより顕著になったといえよう。そして、この点は、民主化の進んだ戦後にも、本質的には、それほど大きく変わっていないのではないか。・・・
日本の刑事司法であろう。表面的には、刑法も刑事訴訟法も整っており、洗練された解釈学もある。しかし、その実態をみれば、「自白の偏重と自白するまで身柄拘束を続ける『人質司法』の蔓延、推定無罪の原則とは反対に、被告人が無罪を証明しなければならないに等しいような有罪推定の原則」が厳然として存在するのだ。・・・
「疑わしきは罰せず」という近代刑事法の大原則、憲法に基礎を置くそれが、現実には、いとも簡単にねじ曲げられてしまっている。これは、今日では、欧米はもちろん世界標準からも外れた事態であ<る。>・・・
<法の支配ではなく、人間主義(縄文性)の支配なんだよね。↓>
日本では、人々の行動を実際に規制・規整している第一次的な要因は、今日でも、明示的な「法」よりもむしろ、法の内側にある「見えない社会的規範、ムラ社会的なオキテ、シキタリ」なのではないだろうか?
<これは、弥生性の放棄の帰結なの!↓>
そして、そうした事態が、さまざまな意味において日本社会・日本人の足かせになっており、ひいては、日本社会における危機管理能力の致命的な不足、また、グローバリゼーション以降の新しい世界情勢を的確に把握し、対応してゆくヴィジョンの欠如といった事態にも、つながっているのではないだろうか?・・・」
→
最後の問題ですが、イエモトにせよイエにせよエージェンシー関係の重層構造にせよ、人間主義(縄文性)由来の社会組織そのものは、私見では、必ずしも「近代的な産業化」等に有利な条件ではなかったのであって、有利な条件は、安全保障上の危機意識を強く喚起するところの、日本の(決して強くない部類ではあるけれど)弥生性にあった・・他方、この弥生性が、例えば、支那では日本より遥かに希薄だった・・というのに、それに、シューも佐藤らも、そして浜口も気付いていないことです。(太田)
なおなお、アングロサクソン及びベルガエ人の出身地である、ベネルックス/ドイツ北部/スカンディナヴィア、は、私見では、このアングロサクソン文明の強い影響を受け、更には同文明成立後も、イギリスに志向したところの狭義、広義のヴァイキング準ヴァイキングの出身地がデンマークとノルウェーであったことから、これらの地域は準アングロサクソン文明地域となり、だからこそ、イギリスのウィクリフ(John Wycliffe。1324~1384年)に始まるところの、事実上の脱キリスト教運動たる宗教改革運動
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の結果生まれたプロテスタンティズムが、大ブリテン島全体、及び、ベネルックス/ドイツ北部/スカンディナヴィアに普及する
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のだ。
この、アングロサクソン文明、準アングロサクソン文明、に加えて、(プロト日本文明に回帰しつつある)日本文明、の諸国だけが、現存する人間主義的社会であるところ、私見では、狩猟採集時代の人類社会は、それぞれの規模は小さかったものの、基本的にその全てが人間主義社会であったというのに、人間主義社会が絶滅したのは、弥生性なくして農業革命後に出現して弥生性を帯びた非人間主義社会の脅威に対抗できなかったこと、と、対抗するためには自らも弥生性を帯びた人間主義的社会へと変貌を遂げる必要があったところ、弥生性と人間主義性(縄文性)とのバランスをとることが容易ではなかったからだ。
現存する人間主義的社会が押しなべて、その成人が高度な能力を有していること(コラム#14633)が、この「バランスをとること」をかろうじて可能にしている、ということではなかろうか。
<「法」は非人間主義者をコントロールする手段以上でも以下でもないのよね。↓>
「・・・日本において相対的に「法」が無力であり、知識人をも含めて人々の法に関する知識、感覚が乏しく、したがって法意識も未熟なままであることについては、「法の支配」の欠如、手続的正義の原理の欠如が、大きな理由として挙げられる。・・・」