杉山構想
⇒要は、諭吉は、日本文明は人間主義文明なのだ・・諭吉の頭の中では、恐らく、日本は「万物一体の仁」の国、という認識だったことでしょう・・から徳は十分だが、この徳を日本の外にも普及させようとしてこなかった限りにおいて、それは「私」徳でしかなかったところ、それを「公」徳化させ、アジアを解放/復興させなければならないのであって、かかる目的を追求するためには、日本文明において不十分であった智、つまりは科学、とりわけ経験科学、の振興を図ることによって、それを富国強兵の手段として活用する必要がある、と、訴えたのだと思うのです。
⇒国家神道は英国教の翻案である(コラム#省略)との、また、教育勅語は「濃厚な儒教的色彩帯びた徳目をちりばめた」ものではなく人間主義(縄文性)教育を謳ったものであって「脱亜」でも「入欧」でもなく、この人間主義の普遍性を宣言したものであった(コラム#10728、10738)との、私の指摘をここで繰り返す必要はありますまい。(太田)
⇒いずれにせよ、このような主張は誤りであり、どうして、そんな「マインドコントロール」が解けた敗戦後にも、日本の帰還兵に殆どPTSDが発生しなかった(コラム#省略)のかさえ説明できません。
自衛とアジア解放という、縄文人(人間主義者)にどんぴしゃの戦争目的を政府が掲げたことが、日本兵達に正戦意識を植え付けたからこそ、殆どPTDSが発生しなかった、というのが、私のかねてからの主張に人間主義的味付けをしたところの、私の最新の主張です。
私的制裁や捕虜刺殺「訓練」の黙認や奨励は、以上の私の最新の諸主張と矛盾するものではありません。
(戦争前、戦闘前、という意味での)「平時」において、縄文人(人間主義者)たる兵士達の背中を一押しして、彼らが本来備えている武のスイッチを入れるために極めて有効であった、ということでしょう。(太田)
⇒それは、両者の性格の違いに由来するものではなく、この場合、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者か否かという「思想」の有無を持ち出すまでもなく、縄文的弥生人である点では共通しつつも、山縣は伊藤に比べて、縄文性/人間主義者性、がより強かったことに由来するものでしょう。
すなわち、伊藤はアジア諸国伝いに英国に密航したのに対し、山縣はそんな経験がなかったにもかかわらず、伊藤は、半植民地/植民地下のアジア人達の境遇に憤激の念を抱かなかったというのに、山縣は、憤激の念を抱いていた、ということなのです。
これは、換言すれば、伊藤は、自国の安全保障だけを考えていたのに対し、山縣は、アジア、というか、半植民地/植民地地域、ひいては欧米も含む全世界、の安全保障を考えていた、ということでもあります。(太田)
⇒どうもありがとう。
以下、頭の整理を兼ねて。
当時の日本政府が掲げた戦争目的=自存自衛+アジア解放、であった(典拠省略)ところ、説としては、侵略戦争史観がまずあり、それは、敗戦し戦争目的を達成できず、としている。
他方、自存自衛史観・・典型的には靖国史観・・
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とアジア解放史観・・典型的には林房雄の大東亜戦争肯定論
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と、恐らくは、かつての政府史観であったところの自存自衛史観+アジア解放史観、があるのだろうが、私の先の大戦に係る史観は、自存自衛+アジア解放+対ソ抑止、であるところ、要は、欧米の非人間主義諸文明からの全世界の解放、であるわけ(コラム#省略)。
笹原説は大東亜戦争肯定論の焼き直し、という印象。
最後になるが、自存自衛にもブロック経済打破/経済封鎖打破から勢力圏維持まで、アジア解放にも中共否定から肯定まで、の幅があることに注意。(太田)
⇒田中智學は、大国の八紘一宇を日蓮主義的に再定義することで、(その後に策定される)杉山構想を支える思想を(結果的に)生み出したと言ってよい。
私の言葉で説明すれば、それは、国民の大部分が人間主義者である日本は、そういう日本人の象徴たる天皇を戴きつつ、全世界に人間主義を普及し、世界の大部分の人々を人間主義者にする使命があり、この使命を達することで、紛争の原因の大部分が取り除かれ、死刑や戦争の必要性もなくなる、という思想だったのだ。(太田)
⇒奇しくも同じ1920年の秋に宮沢賢治も国柱会に入会しています
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が、先取り的に申し上げれば、莞爾は、「法華経、日蓮、田中智学」の教義に関心を抱いたのに対し、賢治は「」の核心的主張・・人間主義世界普及・・に感銘を受けたのであり、それが、戦後、莞爾の言説の陳腐化をもたらした一方、賢治の作品の人気をもたらしたのです。
私に言わせれば、この違いのよって来る所以は、莞爾と違って、賢治は、教義など、核心的主張の広宣手段、すなわち、方便、に過ぎないと認識できたから、つまりは、莞爾は大秀才だったのに対し、賢治は天才だったから、です。
(天才日蓮、と、日蓮の同僚転じて日蓮の高弟となった大秀才の日昭、のこと(コラム#12103)も、この際、思い出してください。)(太田)
⇒非欧米世界と関わった当時の日本人達の中に悪徳日本人がいたことは事実ですし、彼らは非難されてしかるべきですが、石原の念頭にあったのは、当時の陸軍の上層部、すなわち、杉山構想信奉者達、であったところ、杉山構想は、覇道を手段として・・方便として!・・人間主義の普及という道義的目的を実現しようとしたものであり、石原は、実際のところ、法華経の記述についても日蓮の言動についても、その(私見では経験科学的である、ところの)核心、が分からずじまいだった、と言うべきでしょう。(太田)
というか、そもそも、鈴木は金沢藩の藩医
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の子(※※)なので、鈴木は縄文的弥生人の可能性が高く、西田は縄文人の可能性が高いので、鈴木は、両親から引き継いだところの、縄文性の毀損を修復する必要はあったところ、臨済禅によってというよりは、臨済宗寺院環境に頻繁に身を置くことでそれに成功していたと思われるので悟りが私の言う人間主義者化(回帰)的なものであることが分かっていた可能性を完全には否定できないのに対し、西田は加賀藩の大庄屋を務めた豪家の出身(※)なので、物心がついた時には西田は既に悟っていたため、悟りの何たるかをついに分からずじまいだったことは確実だと思われる以上、そんな自分が分かっていないものについて、欧米の哲学用語を使おうと使うまいと、説明できるわけがないのだから、『善の研究』等の西田の業績は、単なる落書きに毛が生えた程度の代物に過ぎない、ということにならざるをえまい。
だから、そんな「西田哲学の立場に立」っていた京都学派の生産性が限りなくゼロに近かったのは当たり前だし、そんな京都学派の利用価値などない、と、帝国陸軍は見切っていたので、魚心十分の京都学派と、帝国陸軍が唾をつけていないことに目をつけたところの、水心のあった(陸上のことには疎い)帝国海軍、とが野合したといったところだろう。
1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。
毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東はアメリカの記者であるエドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している。
「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる」
当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです。
⇒近代化において支那に先行した日本の抱くアジア主義なる理念と日本が抱懐する人間主義に、24歳頃の毛沢東が気付かされた瞬間だと私は見ている。(太田)
⇒こんな毛沢東が、魯迅の非人間主義支那人、ひいては儒教、批判や、周作人を通じて知った新しき村、に入れ込んだのは当然だった、と言えよう。
なお、前にも指摘したことがある(コラム#省略)が、毛沢東が引かれたのはマルクス主義であって、マルクスレーニン主義/スターリン主義、ではなかったはずだ。
というのも、毛沢東は、同じ日本大好き人間だったところの、ハイネ、的マルクス理解・・人間主義者マルクスとの理解・・をしていた、と、私は見ているからだ。
これも、同じ頃に指摘したことがあるが、そもそも、中国共産党が創設された1921年の時点で、資本論すら漢語訳されてはいなかった(注126)ことを思え。
⇒蘇峰は生涯キリスト教徒であり続けたのに対し、滔天はキリスト教を捨てたわけであり、それは、滔天がキリスト教が人間主義を説く宗教ではないことに気付いたからだろう。
他方、蘇峰は、ひたすら、日本のみならず、欧米の流れにも掉さし続けた他律的な人物だった、ということになりそうだ。(太田)
すなわち、魯迅は、阿Qを創り出し、支那に満ち溢れさせたのは儒教だ、そんなものを捨て、藤野先生(実は日本人の象徴)を見倣って人間主義者になれ、と喝破した(注141)のであって、これが言いたいがためにこそ、魯迅は『藤野先生』を書き、これを支那人民に徹底させるためにこそ、毛沢東は、『藤野先生』を中共の教科書に掲載させた(注142)のだ、と見ている次第だ。
毛沢東は、日本大好き人間で、今回分かったように、アジア主義者(≒秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者)であり、当然、人間主義者でもあったわけだが、以前に指摘したように、毛沢東はマルクスが思い描いた原始共産主義社会に日本社会は近いと見ていたと思われるところ、この私の直感が正しいことが、このような、中共における四季の歌の賞揚が物語っていると言えよう。
というのも、ハイネ(注144)は、日本以外で、日本人の人間主義性に最も早く気付き、讃嘆した著名人なのであり、魯迅がハイネに注目したのはそのためであり、恐らく、毛沢東は、魯迅を通じてハイネを知り、自分のマルクス/共産主義観の正しさを確信したのではなかろうか。
⇒著書の言及する3月3日の挿話は、宗像が木戸を再訪した時のものです(上掲)が、この時、宗像は、「共産主義になったら皇室はどうなるのか、国体と皇室の擁護は国民の念願であり木戸の思いでもあるはずだ、と木戸に問い返し・・・たのである」(上掲)というわけですが、私見では、木戸は、杉山らの一味であって、終戦の時期を調整するためにソ連に和平を仲介させる試みを、絶対成就しないことを知りつつ推進しているところだったので、そのような共産主義論・・マルクスは人間主義者だったのですから、共産主義を(人間主義に立脚した)社会主義に置き換えれば、かつまた、木戸は、中国共産党が、まさにそのような社会主義政党であることも知っていたと考えられる以上は、それほど奇矯な言明ではありません。
D:二度の原爆投下(8月6日、9日)、
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と、ソ連の対日参戦(8月8日)、
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の、どちらが日本の終戦時期決定に最大の影響を及ぼしたのだろうか。
O:今まで言ってきたことを若干敷衍して繰り返すが、ソ連の対日参戦は対米英戦開始当時から杉山元らは予見していたところ、わざわざ第一総軍管轄外に置いたところの、北海道及びそれより北の日本領をソ連が席捲してから終戦に持ち込むつもりであったところ、原爆投下で、ソ連軍が北海道に上陸する前に終戦にしたのは、予定よりも繰り上げたものであり、原爆投下が最大の影響を及ぼしたと言えよう。
二度の原爆投下の後始末に奔走させられることになったところの、第二総軍司令官の畑俊六、が、第一総軍司令官でありかつ事実上の帝国陸軍最高指導者たる杉山元に対して、広島と長崎の後始末で第二総軍は手一杯だし、更に続いて原爆が投下される可能性だってあることから、もはや戦争継続は不可能、と伝え、杉山の方は杉山の方で、そもそも、米国が(参戦時期を知らされていたところの)ソ連の対日参戦とほぼ同じ時期に原爆投下を始めたのは、ソ連を牽制する意味合いもあったに違いない、と、受け止めていて、それならば、北海道までソ連にくれてやることで、日本本土内で米ソを対峙させて、米国の反ソ意識を喚起させる必要はなくなったと考えるに至っていたと思われ、この畑の申し出をすぐ飲んだのだろう。
それにつけても、「人としての道」(道義)について語った、西郷、の考えの陳腐さ、あえて言えば人間主義への無関心さ、は、私には衝撃的でした。
西郷こそ、討幕維新の最大の黒幕であったことは確かながら、彼、人間主義に、ということは、日蓮主義にも、関心がなかったとなると、島津斉彬コンセンサスも、一種の台本として丸暗記して、当時、俳優のように演技を続けただけであって、同コンセンサスの理念(劇の狙い)なんぞ全く理解していなかったのではないか、という気がしてきました。
仮にそうだったとすれば、維新後の、「富国」そっちのけの「強兵」の主張、それが容れられず拗ねての鹿児島引きこもり、その当地での「外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた・・・私学校」
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の創設・運営、大量道連れ自殺的な西南戦争の決行、といった、彼の愚行のオンパレードの説明がつきそうですね。(太田)
⇒東亜新秩序にしても大東亜共栄圏にしても、直接的ないし間接的に人間主義理念が明確に掲げられることはありませんでしたが、それは、当時の、というか、今でも同じですが、明治以降の日本の文系学者のレベルの低さに起因して政府や軍部とは無関係にそういったことを打ち出せた文系学者がいなかったこともさることながら、打ち出したければ打ち出せた人材を抱えていた帝国陸軍、より端的には杉山ら、が、そうしたくなかったからだ、と、私は見ています。
広義の欧米に、その三すくみの状況を克服して団結する万が一の可能性を招来するような、普遍性ある科学的な新理念の「脅威」をつきつけることを避けた、と。(太田)
⇒付言すれば、エンゲルスが使い始め、マルクスも採用した原始共産制なる社会体制「では、健全な身体を持つ全ての人間は食料の獲得に従事し、狩猟や収集により産み出されたものを全員が共有する。原始人の生活では産み出されたものは即座に消費されるため、余剰は産み出されず、衣服などの個人的な物品を除けば私有財産はほとんど存在しなかったであろう。長い時間存在したものは道具や家などわずかであり、それらは共同で保持された。そして国家は存在しなかったであろう。」
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とされるところ、これぞ、私の言うところの人間主義社会チックであって、マルクス主義は、この原始共産制を産業化(工業化)社会において実現しようとするイデオロギーである、と言ってよく、廣松を持ち出すまでもなく、毛沢東は、マルクス主義の当時の最新形態であったマルクスレーニン主義が、当時の日本のような産業化社会における人間主義社会、へと支那を変換させるための権力奪取/維持方法を教えてくれるのではないかと考え、中国共産党の創立メンバーになった、と、思うのだ。
(このことを象徴的に示しているのが、ユダヤ人同士でマルクスとも親交があったハイネ・・日本以外で、日本人の人間主義性に最も早く気付き、讃嘆した著名人だ・・が登場するところの、芹洋子の四季の歌、の、中共での、やや大げさに言えば準国歌扱いだ。(コラム#13381))
そんな毛沢東に、提携相手として杉山元らが白羽の矢を立てた・・ちなみに毛沢東のスペアは恐らく日本留学経験のある周恩来であったろう・・のは、ごく自然なことと言える、と私は思う。(太田)
徴兵軍だったのに、帝国陸軍の部隊・兵士が先の大戦において、全ての戦線で「必死に戦った」のは、漠然とではあれアジア主義が浸透していて大義は自分達にあり、と信じていたからだ、というのが大前提としての私の見解であることはご承知だと思います。
その上で、(戦前において意図的に対米装備に係る経費を抑えて他に回したこともあって質量ともに不十分な装備で太平洋戦線で戦うことになったにもかかわらず、)対米戦でも「必死に戦った」、というか、杉山らが太平洋戦線で戦いを継続させた理由は、ロシア(ソ連)が対日参戦をして、しかも、日本の領土、できれば北海道、まで侵攻してくる時まで、米軍の日本本土上陸作戦の発動時期を遅らせる必要があったからであり、その目的は、米軍をロシア軍と直接「対峙」させることによって、戦前まで親露(ソ)であった米国、しかしさすがに猜疑心が高まりつつあったと杉山らが見ていたであろう米国、に、それまでの日本がやってきた対露(ソ)抑止を全面的に、しかも、全世界的に、肩代わりさせることであった、と、私が見ているのもご承知だと思います。
で、杉山らは、これにほぼ成功して終戦を迎えることができた、と。
(「ほぼ」の意味はここでは繰り返しません。)
太平洋戦線で「必死に戦った」それ以外の対米「効果」・・例えば天皇制の維持・・なんてものは、どうでもいいとまでは言いませんが、派生的なものでしょう。
ついでに、対露(ソ)抑止を含め、戦争目的を全て達成したわけですから、日本は対支英米戦争であった先の大戦で勝利したのであって、先の大戦の終了を日本で「敗戦」ではなく「終戦」と形容したのは正しかった、という私の見解を改めて記しておきましょう。
⇒この時点で国体護持(天皇制の維持)を本当に期していたのは昭和天皇や近衛文麿くらいで、陸海軍の首脳は、ホンネでは全くこだわっておらず、ただただ、昭和天皇に最も適切な時点で終戦させるための、良く言えば錦の御旗、悪く言えば小道具、として使っていただけだ、と私は考えるに至っています。
閑院宮と伏見宮は、それぞれ、参謀総長、軍令部総長、として、杉山構想に従って、それぞれ、陸軍と海軍を対英米戦直前まで引っ張って行ったわけであり、対英米戦の結果は必然的に軍事的敗北がもたらされることも分かっており、そのまま両総長にとどまっておれば、確実に天皇制は終焉を迎えるので、それは避けたものの、だからといって天皇制が維持されるとは限らない、国体が護持されなくてもかまわない、と思っていたはずです。
この2人はどちらも、天皇家の本家である伏見宮家の人間であること(コラム#省略)も思い出してください。(太田)
今更ながらだが、島津斉彬コンセンサス形成者たる島津斉彬本人、そして、このコンセンサスを踏まえた日蓮主義戦争を指導したところの、(貞明皇后についてはさておき、)山縣有朋、西園寺公望、牧野伸顕、杉山元、のいずれも、天皇制、或いは、その時々の天皇に対して格別の思い入れなどなかったように思われる。
⇒対米英戦こそ、昭和天皇から消極的抵抗を受けただけで開始することができた日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者達だったが、その戦中から戦後にかけて、山縣らの懸念は現実化することになったわけであるところ、幸い、それが、対米英戦の帰趨に影響を与えることはなかった。
なお、山縣ら・・貞明皇后もそうだ・・は、名実共の秀吉流日蓮主義でもって本格的日蓮主義戦争の第二フェーズを戦う想定をしていたので、昭和天皇の下では事実上信長流日蓮主義で第二フェーズを戦わざるを得なくなった以後においても、終戦後、天皇制が廃止されてもかまわないと腹を括っていた、と、私は見ている。
ところが、昭和天皇のおかげで、彼らの想定、覚悟、にもかかわらず、極度に形骸化された形ながら、終戦後、天皇制は存続することができたのだ。
もっとも、その結果は、(後述するように、)日本政府の脳死であり、日本文明のプロト日本文明への回帰だったわけだが・・。