後醍醐天皇、足利尊氏


コラム#11802(2021.1.26)

 ⇒そうなのではなく、足利尊氏/義詮≒高一族≒足利直義/直冬/基氏、つまりは足利氏嫡流総体、が、基本的に「旧体制のあり方を踏襲した」ことが、室町幕府の時代全体を広義の戦国時代化してしまったのです。
 「基本的に」というのは、それが、北条得宗家による権力簒奪後の鎌倉幕府への回帰だけではなく、承久の乱で敗れた後鳥羽上皇が追求したところの、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想が実現されつつあった鎌倉幕府初期の体制、すなわち、清和源氏の嫡流筋が武家総棟梁として日本の権力を担い、日本の封建社会化の完遂を目指す体制、への回帰でもあったからです。
 しかし、元寇の時点までに日蓮が気付いたように、鎌倉時代中期までには、日本の軍事力は日本を防衛するためだけであれば過大なものになっており、日本を再中央集権化(脱封建社会化)させつつ、その軍事力を(人間主義普及を伴う広義の、かつ中長期的な、安全保障目的、で)対外的に活用する必要が出てきていたのです。
 しかし、元寇後においても北条得宗家はそれをやらなかった、だからこそ、後醍醐天皇がそれを行おうとして鎌倉幕府を打倒したというのに、後醍醐の真意を知ってか知らずか、その時計の針を巻き戻してしまったのが、足利氏嫡流総体であった、そしてその結果、理の当然として、日本国内の過大な軍事力は、非合理的にして非生産的なる内戦の恒常化という形で費消されることとあいなってしまった、というわけなのです。(太田)


コラム#11812(2021.1.31)

 清和源氏のほぼ嫡流ではあるものの一貫して利己主義的で機会主義的で打算的な家風を維持し続けてきた足利氏であるとはいえ、その足利家に、馬の骨によって簒奪される恐れがない形で、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の完遂が委ねられる運びとなったのは、同コンセンサス/構想がついに結実したわけであって、その限りにおいてはそれは嘉すべきことではあったけれど、(承久の乱の時の足利氏自身の懈怠もあって、)1世紀半もそうなるのが遅れたのは致命的だったのであり、既に、安全保障の観点からは、同コンセンサス/構想を昇華させ、権威と権力の分立を確保した上で、日蓮主義に基づく、人間主義普及のための対外侵攻を目的とするところの、日本の再中央集権化が喫緊の課題となっていたというのに、日本は、それに完全に逆行した、広義の戦国時代ともいうべき非生産的な時代を爾後2世紀にわたって経験させられる羽目になるのです。
 どちらも、半分ずつ誤っていたところの、後醍醐天皇と足利尊氏、の2人の罪は大きい、と言わざるをえません。
 そのおかげで、日本は広義の戦国時代が続くこととなってしまったところ、日本を除く非欧米世界に至っては、人間主義とも縄文的弥生人とも無縁のまま、そのほぼ全てが、ゲルマン人主導の欧米世界によって席捲され蹂躙され征服されてしまうのですからね。(太田)


コラム#13213(2023.1.1)

 昨日、「先の大戦の終戦まで、縄文的弥生人に敬意を払う伝統が続いていたから・・・後醍醐天皇<や>・・・浅野内匠頭<は>・・・名君<とされた>」と書いたが、補足しておくと、縄文的弥生人(武士)を創り出したのは天皇家であり、武士を、所期通りに天皇家(日本国)の暴力装置たらしめようとした後醍醐天皇は名君なのであり、足利家同様、武士を自家(日本の私政府)の暴力装置たらしめてきた徳川家の意思決定に対する異議申し立てを行動によって行った赤穂浪士達を訓育したことになる浅野内匠頭もまた名君とみなされた、ということだ。


コラム#13617(2023.7.21)

 足利尊氏は、桓武天皇構想の成功を象徴する、理想的な武士だったってことだろ。
 問題は、武士に期待されるミッションの変化・・日本の騎乗遊牧民からの防衛⇒日本人以外の人々の人間主義者化・・を、尊氏には関知する感性がなかったこと。↓