日蓮
私は、「立正」はともかく、「安国」もまた、日蓮が、日本政府(鎌倉幕府)に自分の新仏教を売り込むための方便であった、と考えている。
仏教そのものにせよ、法華経にせよ、特定の国を超越したものである以上、日蓮によって作り出された新仏教もまた、日本という国を超越したものであるのは当然であり、いくら鎌倉幕府をこの新仏教に帰依させることができたとしても、侵略を跳ね返すことができるかどうかは、得宗家以下の鎌倉武士達からなる日本の軍事力の機動力や兵站能力を含めた質量次第であること、かつまた、この日本の軍事力が元寇を跳ね返す力があることも、武士の家出身と思われ、多数の武士の信徒を擁していた日蓮は見切っていたと思われるところ、日蓮が見据えていたのは、その先のことだったはずだ、というのが私の考えだ。
つまり、日本人の大部分は悟っている(人間主義者である)のに対し、朝鮮半島や支那や蒙古の人々を始めとする、日本人以外の大部分は悟っていないように思われるので、彼らを救い、悟らせるために、日本政府をして、必要に応じ軍事力を用いて、東アジアを手始めとして、少なくともインドまではその勢力下に収めさせたい、と構想したのではないか、と。
⇒とはいえ、フビライが三度日本侵攻を試みる可能性はあったのだし、明の朱元璋が日本侵攻を行う可能性もあったことからしても、鎌倉幕府は、日蓮主義を採用して、水軍を整備して制海権を確立するとともに陸上兵力を渡海させ、高麗を征服して朝鮮半島を勢力下に置き、元の冬の首都である大都(現在の北京)やその大都と夏の首都である上都
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とを結ぶ兵站路をいつでも攻撃できる態勢を構築することで、日本の安全保障を十全ならしめ、元寇の際の恩賞として半島の土地を与えることによって御家人達の不満を解消し、同時に、朝鮮半島の住民達の人間主義化を図るべきだったのだ。(太田)
この論争があったことは知っていたが、三一権実諍論のウィキペディア
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があるってのは知らなかったな。
で、一、仏教の「僧侶」などという無用の職業ができたのは、釈迦が人間主義化方法論(ヴィパッサナー瞑想)を探し出すことに長期間の専念を要した上、娑婆復帰をしないまま入寂したことに捉われた勘違いのためであり、二、この方法論でもって非人間主義者が人間主義化できるかどうかはカネと時間と適性によって人さまざまであることから、三乗説も一乗説もどちらも間違っているとまでは言えない、三、けれど、日本では、基本的に全員が生まれた時のまま人間主義者であり続けたことから、こんな方法論など不要だったし、(その原因は不明ながら)この方法論(だけ?)が欠如した形でインドの仏教諸派から継受されたところの、支那仏教諸宗派・・天台宗も法相宗もそうだ・・、に至っては、日本にとっては無用の長物だった、四、但し、支那とは違って日本の場合、安全保障の観点から、人間主義者が非人間主義者的言動を行わざるをえないところの、武士、なるものを意図的に創造する必要があり、同時に、かかる武士の人間主義性を維持・回復させるための方法論が求められることとなり、その手がかりを仏教に求め、実際に仏教がそれを与えた、という限りにおいて、仏教は安全保障上、重要な役割を果たすことになり、五、具体的には、日本において、人間主義的言動を行え、と唱えた法華経に(武士の)人間主義性維持・回復という観点から正当に注目した日本の天台宗系諸宗派が、そのような観点を欠いていた法相宗等の奈良仏教諸宗派を「駆逐」したのは必然だったし、六、前者の中から、日蓮の日蓮宗が武士に武力で世界中の人々を非人間主義から解放するための戦争を促し、栄西の臨済宗が武士の人間主義性維持・回復方法論として、日本人の日常生活への神社環境の組み込み、という方法論を発見して唱えるに至ったところ、この両宗派とも、先の大戦においてその歴史的使命を終えた、と、私は考えているわけだ。(関係コラム#省略)↓
「今から1200年前、2人の僧侶の間で行われた“仏教史上最大の対決”の大論争…「三一権実諍論」ってなんだ?・・・
<で、いよいよ日蓮の登場なのだが、彼は、以下のように主張した。↓>
「<現在>は末法であ<り、>・・・人間<は、>・・・素質や能力<・・換言すれば、私の言う、人間主義度・・が>低下し<てしまっているが、幸いにも>・・・日本国<の人間>だけは<人間主義度が比較的高いままであるので、>基本的にその埒外にある。>」
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「<しかし、その日本>国内<においてすら、>内乱が起こり<続けている>(自界叛逆難)<し、文字通り末法の只中にあるところの>、外国<、>から・・・侵略を受けて滅ぶ<恐れだってないわけではない>(他国侵逼難)<、ことから>、邪宗への布施を止め、正法である法華経を中心(「立正」)とすれば<、すなわち、日本国の人間で人間主義性が毀損されている人々の人間主義性を回復するとともに、武力を用いてでも、日本以外の全世界の人間に人間主義を普及させる、という究極の人間主義実践を断行するならば、初めて、日本の>国家も国民も安泰となる(「安国」)<ことだろう。>」
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(備考)
1 日蓮は、毀損された人間主義性の回復方法として種々の人間主義的言動の実践を推奨したことになるわけだが、追加的に新しい回復方法を確立したのが、神社環境を自宅内に取り込むことを推奨するようになったところの、日本の臨済宗、だ、とも、私は指摘しているところだ。
2 毀損された人間主義性の回復方法として、釈迦は、ヴィパッサナー瞑想という方法、ないし、サマタ瞑想(止)とヴィパッサナー瞑想(観)のこの順序で組み合わせるという方法、を発見し推奨したと考えられる
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が、支那仏教では老荘思想や気の思想の影響でサマタ瞑想が重視され、その結果として、ヴィパッサナー瞑想は(禅宗を含む)日本仏教には伝わらなかった。
→ (を参考に、従来の私の考えを少し修正した。)
3 武家がらみの話は除いた。
⇒大谷は、舌を噛みそうな小むつかしい定義をしていますが、大の方であれ小の方であれ、日蓮主義は人間主義世界普及主義である、と、簡潔に定義したいですね。
⇒私の日蓮論はコラム#11375とコラム#12103のが最もまとまっているので、読み返していただきたいが、法華経や日蓮の方便的記述/主張に、智学も莞爾も・・前者は日蓮に、後者は法華経に、よりウェートを置いている点こそ違え、・・捉われているのに対し、宮沢賢治は法華経の方便的記述の背後にある核心的主張を、また、(私の言う)大日蓮主義者達は日蓮の方便的主張の背後にある確信的主張を、それぞれ見抜いていた、というのが私の見方です。
そして、法華経の核心的主張は、個々人は世界に(私の言う)人間主義を回復/普及させることに努めよ、であり、日蓮の核心的主張は人間主義が回復/普及できている日本は国を挙げて世界に人間主義の回復/普及させることに努めよ、であるとも。
このような見方に照らせば、(私の言う)小日蓮主義者たる智学によるところの、(私の言う)大日蓮主義者に使嗾された、ないしは、大日蓮主義者であった、日召一派への批判は、法華経や日蓮の方便的手法そのものを排斥したに等しいナンセンスです。
「国を挙げて世界に人間主義の回復/普及させる」にあたって、方便(手段)として、個々人が自分の命を犠牲にしたりすることはもとより、(テロやクーデタや内乱、等で)自国民の誰かや(国による暗殺や戦闘、等で)他国民の誰かを犠牲に供することは、必要悪として、当然認められてしかるべきだからです。(太田)
⇒私の言葉を用いた、私の取敢えずの答えは、
日蓮は、
一 当初は自身を釈迦の弟子だと思っていたが、やがて、釈迦と「対等」な存在であると思い至り、
二 法華経は、
(一) 悟りや方便等に係る真理を記述している、のであり、
例えば、
(二) 仏は必要に応じ方便を用いつつ、人々を悟らせようとする、とか、
(三) 方便は相手に応じ、かつ時代に即して用いられなければならないので、仏は何度も登場する、とか、
記述していると見、
三 釈迦は、瞑想等による悟りのみを説いたと見たが、それは当時のインド亜大陸(天竺)ではほとんどの人が悟っていなかった(=利己主義者であった)ため、であろうと考えられるのに対し、自分(日蓮)は、同時代の日本では既にほとんどの人が悟っている(人間主義者である)上(無理して利己主義者を演じているところの)武士まで存在しているので、この武士の武力に守られつつ、法華経に記述されているところの、他人を悟らせる最上にしてしかも簡単な方法であるところの、人間主義者相互の、または、人間主義者の非人間主義者に対する、世俗的な利他的行為(=人間主義的行為)の実践を見聞させること、を、外国に出かけ、(その大部分が非人間主義者であるところの)外国人達に対して行うべきだ、と、もっぱら説くこととし、方便は題目唱道の奨励程度にとどめることにした、
威音王仏(弟子達を含む)も不軽菩薩(弟子達を含む)も釈迦(弟子達を含む)も、全て、結局は失敗した・・釈迦は、人間主義的なインダス文明の担い手だった(と推定されている)ドラビダ人
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・・アーリア人がインド亜大陸に侵入してきた時にインド亜大陸南部へと逃げられなかったドラビダ人は原住民としてアーリア人に支配され虐げられて生きていた
→
・・から、瞑想(止観)によって悟る(人間主義者化する)方法を聞き出した、と私は想像している(コラム#省略)ところ、この方法で悟った人を増やし、悟る過程や悟ってからの人々を保護するため、これらの人々からなる共同体(仏教教団)を形成することとし、方便として、かかる共同体を物的に支援し、武器で守ってくれれば、現世や来世で功徳がある、と、近辺の諸国の国王を含む権力者達を説得し、それに一定程度成功したと想像されるが、この方法では、早晩、これら国王等も、仏教教団によって感化されて人間主義的になってしまいがちであり、その場合、貧国弱兵化を招き、遠方の非人間主義的勢力によって滅ぼされてしまうことになり、教団がこの新しい勢力を同じ方便によって説得できなかった場合は、教団自身が存亡の危機に直面させられた、と私は見ている(コラム#省略)ところ、日蓮は、(すぐ上の囲み記事でも書いたように、)天竺でも、支那同様、分裂や王朝の変遷があることは知っていて、天竺では非人間主義的統治、すなわち非仏教的統治、が続いているという認識を持っていたと思われる・・が、自分(日蓮)(弟子達を含む)こそは成功すると信じ、成功させなければならないと決意した、
といったところでしょうか。
「私は日本人達の人間主義性を守るとともに、日本以外の世界の人々が殆ど非人間主義者ばかりであることを見据え、日本人達に対して人間主義を世界に普及させるよう促す決意だ」、「釈迦は、それまで自分がやってきたが失敗に終わったことの反省の上に立って、多数の人間主義者(縄文人)達と少数の人間主義的非人間主義者(縄文的弥生人)達からなる日本文明が神格化したところの、八幡神(注45)、を、日本以外の地域に送り込んで、日本人達以外の大部分の人々、つまりは非人間主義者達に対して、八幡神を見倣って人間主義者または人間主義的非人間主義者になることを促したのだが、それにもまた失敗したため、八幡神は「出身」の日本に戻されてしまい、日本人達にエールを送るだけの日々を送ってきたところ、この際、私、日蓮は、この八幡神を叱咤し、同神をして、日本人達中で八幡神を最も崇敬する(縄文的弥生人たる)武士達に、(人間主義者たる)縄文人であるところのその他の日本人達、を、その安全を確保しつつ率いさせて日本の外へ送り出させることによって、今度こそ必ず成功するであろうところの、人間主義に立脚した日本文明の(日本人達以外の)世界の人々への普及、に乗り出させることを決意した。」
⇒私に言わせれば、それは釈迦の方が悪いのであって、江間が、釈迦の弟子達の方を責めるのはお門違いというものです。
「万人は同じく仏になれる」と(法華経の記述の通り)本当に釈迦が思っていたのかどうかはさておき、釈迦の弟子達にとっては、釈迦が示したと思われる、仏(人間主義者)になる方法、であるところの、出家して(=世俗を離れ、家庭生活を捨てて)
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集団生活を営みつつ止観(=サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想)を行う、という方法は、仏になるのに、長期にわたる努力と時間を要し、その間、在家から布施を受ける
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必要がある上、自分達の安全もまた第三者によって確保されなければならないことから、一部の人々にしか実行不可能であって、そうである以上は、この方法をとって仏になろうとすること自体が「特別な存在にな<る>」ことを意味したことは明らかだからです。
なお、釈迦や釈迦の弟子で仏(人間主義者)になった人々、すなわち成仏者達、が、恐らく気付いていなかったのは、未成仏者だが仏的ではあるところの弟子達、や、この成仏者達、がそのまま出家を続けようと、(当初は想定されていなかったのではないかと思いますが、)自ら還俗
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しようと、それまで自分達に布施したり安全を提供したりしてくれていた人々も、自分達を見倣って仏的な人間になろうとしがちであり、彼らがその結果仏的な人間になってしまった途端に、自分達も彼らも、仏や仏的なものに関心のないそれ以外の集団から安全を脅かされ、蹂躙されしまい、その結果仏も仏的な人間も絶滅してしまって、全ては元の木阿弥になってしまう可能性が大きいことです。
以上を踏まえた上で、大事なことなので、改めて、日蓮の思考過程を、(耳タコかもしれませんが、今まで記してきたこととの重複を厭わずに、)大胆に想像し、再整理してみるとこんな感じになるのではないでしょうか。↓
日蓮は、(観(ヴィパッサナー瞑想)の具体的なやり方についての説明が漢文経典群の記述から抜け落ちている<(注49)>ことに彼が気付いていたかどうかはともかくとして、)釈迦は、以上のような次第もこれあり、結局、非仏性(非人間主義)社会の仏性(人間主義)社会化に失敗したのであったところ、その原因は、釈迦の唱えた、個々人が仏(人間主義者)になる方法(悟る方法)が難度の高いものであったことから人間主義者の増加が遅々たるものであったこと、に加えて、人間主義集団を内生的に守る方法・・人間主義集団内にその集団の安全を確保する小集団を形成するという方法・・も考えつかなかったからである、という結論を下した。
そして、その上で、仏になる方法は、(法華経の記述を信じればだが、)釈迦自身が示唆していた、ように、人間はそもそも仏性(人間主義性)を持って生まれてくるのだから、日本社会のように、周りが概ね仏(人間主義者)ばかりであれば、その社会で育った人間が、非仏(非人間主義化)化しそうになる都度、それに、自分で気付いたり、他人から注意されて気付いたりすることで、反省し、基本的に仏(人間主義者)であり続けることができる社会が現実にある以上、日常的に日本人と交流したり日本社会を観察できる環境を外国人達のために作ってやれば、彼らのうちの少なからぬ部分は自発的に日本人を見倣って仏(人間主義者)になるだろうし、日本人がその外国の権力を掌握して、或いは、その外国の以上のようなことを自覚した権力者が、支配下の外国人達に対して、日本人を見倣うように「強制」すれば、仏(人間主義者)になる割合は更に増え、時間の経過とともにその割合は増え続けて、ついには、その社会が日本に似た社会へと変貌を遂げることが期待できる、と考えた。
日本では、桓武天皇以来、人間主義の国である日本を守るために武士を生み育てて来た。
その日本に、今や、この武士を先頭に世界に人間主義を普及させるべき時機が到来している。」
注目すべきは、日蓮には、桓武天皇への言及こそあれ、「天皇を絶対的な存在として仰ぐ」姿勢など見られないことだ。
日蓮は、私見では、武家の過剰が内戦状態の恒常化をもたらすことを危惧し、武家を対外志向させることによって、人間主義(縄文性)の世界への普及、ひいては世界に平和をもたらすことを夢見たのだ。(コラム#11375)
別の角度から言えば、日蓮は、人間主義を世界に普及させるための弥生性の発揮を、武士にとっての最高の慈悲行である、と考えた、と、私は見ている。
これを、私は、(広義の)日蓮主義と呼んでいる。
1321年・・・、<日像が、>後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。1334年(建武元年)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。・・・
⇒これは、後醍醐天皇による自らが日蓮主義者であるとの宣言であった、と、私は見ている。
それは、天皇自らが、権力を掌握し、封建制を廃して日本を再中央集権化した上で、武士達に日蓮主義的外征を行わせる、との決意表明でもあった、とも。
そのために、同天皇は失敗に終わった1331年の元弘の乱を経て、1333年に鎌倉幕府の打倒に成功し、建武の新政を開始するも、足利尊氏の母の弟が日蓮宗の高僧の日静であったことから、
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足利氏が事実上の日蓮宗信徒であったにもかかわらず、1335年に足利尊氏が背き、1336年には失権してしまい、外征への着手どころではなかった。(太田)
さて、「私は、鎌倉持代以降、近衛家と島津家は<一貫して>一心同体に近かったと見て<いる(コラム#省略)が、この>近衛/島津家<は、>後醍醐の親政構想に反対した<ところ、それ>は、後醍醐が日蓮主義を信奉していて大陸侵攻を企図していた、ことに共感は寄せつつも、そのリスクの大きさからしても、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の完全実現、すなわち、鎌倉幕府では不完全に終わったけれど、今度こそ清和源氏の嫡流筋に権力を担わせる形での完全実現、が先決であると考えたからだ、と思う・・・。
であるとすれば、近衛/島津家は、天皇家親政志向の南朝にも、日蓮主義の実施を妨害した尊氏にも、飽き足らなさを覚えていたはずであり、彼らが、尊氏、直義/直冬、そして南朝、の三者の間を揺れ動いたのは、(もちろん<世俗的>利益追求の側面もあったはず<だ>が、)不思議ではない、ということにな<る>。」(コラム#11768)(太田)
<だ>から、三国世界観の中で、天竺、震旦、天竺は当然インド・・・、震旦は唐、中国であり・・・、それぞれの国に対して、日本は優れているんだと、超えてるんだと、いう理解があるわけ<だ>。そして、その根拠として、実は、同じ『新国王御書』の資料に、「其上神は又第一天──照太神・第二八幡大菩薩、第三は山王等三千余社、昼夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給。」即ち、神に守護されている、その神の先祖たる天皇家<という>意識もここにはあるんだと思<う>が、神に守護されている、そういう国が日本だと、いう風にこれを捉えて<い>た、という風に見ることができ<る>。・・・
⇒これも、天皇家に取り入るための方便だった、と見るべきだ。(太田)
神孫たる、神の子孫である天皇じゃなくても王になるということを明らかに明かされている。<だ>から、こういう記述は、実は佐<渡>前にはなく、天皇の神聖を認める立場を取って<い>たのが日蓮聖人な<のだ>が、佐<渡>後にあってはそういう立場を改め・・・て、天皇に特別な権威を認めていない、天皇じゃなく、天皇家の人間じゃなくても、日本国王になる資格がある、資格を認める、そういう、可能性を示して<い>るのが佐後の<日蓮の>思想<だ>。」
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⇒鎌倉幕府の先、いや、実に、天皇制がなくなってから先の日本まで日蓮は見据えていた、ということだ。(太田)