平安構想(桓武天皇構想)


コラム#13381(2023.3.25)

 「第一に、聖徳太子が、・・・ガタガタになった日本の軍制を、蝦夷と支那から学ぶことで、抜本的に立て直さなければならない、という、私の新たな命名によるところの、聖徳太子コンセンサス、を形成したこと、と、第二に、桓武天皇が、この聖徳太子コンセンサスを具体化する、同様私の新たな命名によるところの、桓武天皇構想、を樹立するとともにその実現に着手し、以降の数代の諸天皇がこれを引き継ぎ完遂したこと、のおかげで、日本は、アジア随一の弥生性を確立することができたのです。」(コラム#11164)というのが、桓武天皇構想の初出であるわけだが、改めて考えなければならないのは、日本の軍制が立て直されたされたとして、守るべきものは、日本の領域・・天皇の支配の及ぶ地域・・だけだったのか、だ。


コラム#13381(2023.3.25)

 これは、桓武天皇が、厩戸皇子が人間主義を、日本が守らねばならないものとして、領域と共に、いや、恐らくは、領域よりも重要視していたに違いないと考え、人間主義の理論化、と、この守りの担い手として自分が日本において生み出そうとしているところの、縄文的弥生人(武士)の毀損されるであろう人間主義の修復手段、とを探し出してくれることを、最澄に期待したものである、と、見たらどうだろうか。
 そして、日蓮もそのように理解していたのではないか、と。
 その傍証となるのが、「唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向<が>奈良時代・・・から進行していた」

ことだ。


コラム#13549(2023.6.17)

 私は、紫式部は、人間主義社会に生きる人間にも悩みや他人との軋轢はあるが、人間主義的な言動に徹するように心がけることでそれを克服することができる、ということを『源氏物語』の中で示唆している、と見る。
 仏教に関しては、『源氏物語』の中で「当時の風習であるから、仏教に関する事柄をも写した」に過ぎないが、だからといって、彼女は、「仏教を軽視し」たわけでは必ずしもなく、仏教は非人間主義者を人間主義者化することを目指す営みであって大いに尊敬されるべきものだが、遺憾にも日本に伝わった仏教はそのための具体的方法論を欠いている上に、日本人の大部分は人間主義者であるので、仏教など不要だったのだが、創出されつつある武士達のためには、人間主義化方法論を備えた仏教が必要だ、と「正しく」認識していた、と見ている。
 なぜなら、私は、それが、桓武天皇構想のトレーガー達の共通のホンネとしての仏教認識だったと考えているところ、紫式部は、超がつく才媛で、しかも、一条天皇や藤原道長クラスの人々と交流があった人物だからだ。


コラム#13549(2023.6.17)

 さて、和辻らが、古今和歌集を評価するにあたって、醍醐天皇が、日本史上初めて国家事業として『古今和歌集』を編纂させた、すなわち、最初の勅撰和歌集を編纂させた、のは一体どうしてなのかに思いを致していないのはいかがなものか。
 私は、創出されつつある武士ないし武士の卵達に向けて、私の言うところの、毀損された、或いは毀損されるであろう、縄文性を回復し、維持する手段として、厩戸皇子が、従って桓武天皇も、仏教に期待をかけたものの、未だ仏教界がその期待に応えることができていない・・仏教(真言宗)に現世利益を求めた藤原淑子(前出)や仏教(真言宗)に入れあげて政務を疎かにした清和天皇(後述)、ひいては桓武天皇が勧進したところの、平安2大仏教宗派たる天台宗と真言宗



に対し、醍醐は憂慮の念を抱いたことだろう・・ことから、補完的方法として、「たおやめぶり(=人間主義)」の和歌に接したり読んだりすることを推奨することを思いつき、そのような和歌を中心とした歌集の編纂させることとした、と受け止めることができるのではないか、と考えた。


コラム#13549(2023.6.17)

 以上から、醍醐天皇が、時代が弥生モードに切り替わろうとしている時代、縄文的弥生人たる武士が権力の担い手になるのがそう遠くない時代、において、武士の卵達に対し、もののあはれ(人間主義性=縄文性)を忘れない縁(よすが)にさせるため、『古今和歌集』を紀貫之に編纂させた、と、私は考えるに至った。
 そして、以上のような古今和歌集に込められたメッセージを、武士達は理解し、正面から受け止め、実践して行った、とも。↓


コラム#13549(2023.6.17)

 ⇒ノンフィクション的フィクションであるところの、土佐日記、の主題は、「もののあはれ」(人間主義性)だと言えそうではないか。
 そうだとすれば、貫之は、生まれつつあった武士達の人間主義回復・維持の縁(よすが)になるものとして、仏教からまだ解答が得られていない状況下において、和歌(『古今和歌集』)だけでは不十分なので、醍醐天皇の遺志にも沿うと考え、かかる縁になりそうな物語を実験的に書いてみようと思い立った、ということではなかったか。
 こうして、フィクションに徹しきれない、ノンフィクション的フィクション、の、しかも、短編、の『土佐物語』が生まれたのではないか、と。
 そして、更に、『蜻蛉日記』は、『土佐物語』に刺激を受けて、同じ主題でもって、紀貫之のような受領階層ではなく(道長の父の)藤原兼家という最高権力者がその妻(の1人)に描かせたと見てよいところの、ノンフィクション的フィクションならぬ、ノンフィクション、作品である

と見ることができるのではないか、そして、『源氏物語』は、同じ主題でもって、兼家の息子でやはり最高権力者たる藤原道長が、紫式部なる受領階層のしかも藤原氏の女性に、天皇家の一員を描かせた、ノンフィクション的フィクションでもノンフィクションでもない、フィクション、作品であって、この3つの作品には共通の狙いがあったのではないか、と。


コラム#13549(2023.6.17)

 ⇒宇多天皇は、桓武天皇構想中の武士創出計画については、完遂への目途をつけることに成功したが、それだけに、創出される武士達の毀損された縄文性(人間主義性)の回復方法の確立が依然五里霧中状態であることが気にかかったのだろう。
 遣唐使派遣は、その方法を、改めて仏教内に求めることが狙いであって、その狙いをよくよく道真に言い含めたのではなかろうか。
 しかし、それが不可能になった時、真如法親王を見倣い、自分自身で何とか方法確立の手掛かりを発見したいと思い、出家した、と、私は見たいのだ。(太田)