江南人、弥生人


コラム#14163(2024.4.20)

 私は、長江文明の江南人は、第一に、稲作の生産性が高く江南人同士で奪い合うインセンティヴが低かったこと、第二に、南蛮は文化が未開な上過疎だったことから脅威にならず、また、第三に、黄河文明は、上述したように、北狄、西戎といった外からの脅威、や、とりわけ邑制社会が形成されて以降は相互の内からの脅威、への対処に追われて、長江文明社会は黄河文明社会に比べれば人口が相対的過疎であったにもかかわらず、江南文明社会へ勢力を伸長させようとはしなかった、ことから、基本的に私の言う、縄文人(人間主義者)であり続けることが可能であったと見ているところ、このうち、黄河文明との境界地域に住んでいた江南人だけは、黄河文明の縄文的弥生性の影響を受けて弥生的縄文人化し、その中から、邑制社会国家たる楚や呉越が生れたり、朝鮮半島南部経由で、或いは直接、日本列島に侵攻的移住をしたところの、日本の歴史上の弥生人が生れた、と、考えるに至っている。(太田)


コラム#14570(2024.11.8)

 ⇒日本列島には、縄文時代にはもちろん国々はなかったところ、BC10~BC8世紀に始まる弥生時代

にも、弥生人の出身地であるところの、長江地域、の長江文明社会にもBC7世紀頃に中原(黄河)文明社会の影響を受けて越や呉ができる


までは国々がなかったためか、依然として国々はできず、この点は、呉と越の滅亡(BC473年、BC306年)に伴う両国の君民の一部の朝鮮半島経由での日本渡来があった可能性が高いけれど基本的に変わりませんでしたが、私の言うAD1世紀頃からの拡大弥生時代(コラム#省略)には、前漢末以降の支那の混乱時代を背景に日本列島に脱出してきた渡来人達が漢委奴国等の国々を作り始め、やがてヤマト王権が成立して日本が統一国家を形成するところ、それは、それまでの諸国をエージェンシー関係の重層の中に適宜位置付け、頂点に象徴的に天皇家を戴くところの、世界標準からすると、異色であるところの、ボトムアップの柔らかい国家・・人間主義的国家・・であった、というのが私の考えです。
 そこには、何の原則・・教義宗教や思想/イデオロギー・・も介在していなかったと言ってよいでしょう。
 これが、郡県制を基本とした、文字通りの、トップダウンの固い統一国家であったところの、支那、の、秦帝国や漢帝国・・いずれも、私見では、タテマエは法家の思想、ホンネは墨家の思想に拠っていた(コラム#省略)・・を継受したものであった筈がありません。


コラム#14639(2024.12.14)

 「日本列島には、縄文時代にはもちろん国々はなかったところ、BC10~BC8世紀に始まる弥生時代

にも、弥生人の出身地であるところの、長江地域、の長江文明社会にもBC7世紀頃に中原(黄河)文明社会の影響を受けて越や呉ができる


までは国々がなかったためか、依然として国々はできず、この点は、呉と越の滅亡(BC473年、BC306年)に伴う両国の君民の一部の朝鮮半島経由での日本渡来があった可能性が高いけれど基本的に変わりませんでしたが、私の言うAD1世紀頃からの拡大弥生時代(コラム#省略)には、前漢末以降の支那の混乱時代を背景に日本列島に脱出してきた渡来人達が<、ついに>漢委奴国等の国々を作り始め、やがてヤマト王権が成立して日本が統一国家を形成するところ、それは、それまでの諸国をエージェンシー関係の重層の中に適宜位置付け、頂点に象徴的に天皇家を戴くところの、世界標準からすると、異色であるところの、ボトムアップの柔らかい国家・・人間主義的国家・・であった、というのが私の考えです。
 そこには、<天皇家を戴くことに係る神話こそあれ、>何の原則・・教義宗教や思想/イデオロギー・・も介在していなかったと言ってよいでしょう。


コラム#11576(2020.10.5)

 ⇒弥生人が渡来した時、縄文人に稲作技術を伝え、弥生人は、縄文人が捧げる贄で生活しつつ縄文人を統治する、という形で両者の関係がスタートした、という意識が残っていたのかもしれませんね。(太田)


コラム#14918(2025.5.2)

 「私の同じ視点」、「私の同じ問題意識」とは、それぞれ、日本列島でのプロト日本文明/日本文明の担い手も、支那での漢人文明の担い手も、主体は水田稲作文化を生んだ江南人で同じであって、漢人と日本人は一卵性双生児的な間柄だというのに全く異なった文明を形成した、という視点であり、概ね弥生的縄文人であった江南人が、どうして、支那では弥生的縄文人たる治者と普通人たる被治者に分化し、日本ではまず弥生的縄文人たる治者と人間主義者たる被治者に、次いで、縄文的弥生人たる治者と人間主義者たる被治者に、分化したのか、という問題意識です。