信長流日蓮主義、秀吉流日蓮主義
そうじゃなく、信長は、自分の思想・・日蓮主義、つまりは、武力も用いた人間主義の世界への普及・・に無関心な家康のような人間は理解できても、嫌悪感を抱く、浅井、武田、上杉、毛利、松永、荒木、明智、のような人間は理解できなかったんだよ。
ちなみに、秀吉は、日蓮宗に馴染みがあったこともあり、信長の思想に共感していた。↓
建武の新政より前の、持明院統と大覚寺統の両統迭立時代の途中、後宇多天皇が日蓮宗にお墨付きを与えた時点から、大覚寺統は日蓮主義、持明院統は非日蓮主義、という色彩を帯びるようになり、建武の新政において、大覚寺統の後醍醐天皇が権威のみならず権力も一時掌握するに至って、その日蓮主義は、後の(私の言う)秀吉流日蓮主義(後出)の色彩を帯びるに至った。
ところが、後醍醐天皇に代わって、足利尊氏が最高権力者となり持明院統(北朝)を擁立する形で室町時代が始まると、足利氏が事実上の日蓮宗信徒であったことから、大覚寺統(南朝)の秀吉流日蓮主義に対し、足利幕府/北朝は自ずから(私の言う)信長流日蓮主義(後出)、という対立図式になった。(コラム#12328での示唆を敷衍した。)
いわば、北朝は、いやいや、日蓮主義を抱懐させられたわけだ。
それを象徴するのが、北朝の後光厳天皇による故日蓮への大菩薩号の追贈(前出)だ。
また、南北朝合一時の真の合一条件は、北朝の後小松天皇による敷地提供による日蓮宗の本満寺の、時の近衛家の長たる近衛忠嗣の叔父の日秀を開祖とする、京都における創建、であった、と、私は見ている。(コラム#12103)
その信長は、「注10」から、自分の軍勢は富国強兵の精華であって日蓮主義の推進を旨とし、具体的には、東アジア(唐笠!)と欧州(南蛮傘!)、すなわち、全世界への人間主義の普及を希求している、ということを宣明していた、と、私は解している。
但し、信長は、天皇家に累が及ばないよう、自分の責任でこれを成し遂げようと思っていた、とも私は見ており、信長の日蓮主義を私は信長流日蓮主義と名づけている。
従って、秀吉は、日蓮宗信徒の身内に囲まれた生涯を送ったと言っても過言ではなく、しかも、日蓮主義者の主君たる信長に仕えたわけだ。
かかる背景の下、秀吉は、信長流日蓮主義とは一味違ったところの、朝廷を巻き込んだ日蓮主義、すなわち秀吉流日蓮主義、を抱懐しつつ、第一次日蓮主義戦争であるところの朝鮮出兵を敢行した、と、私は見ている。
(ア)朝鮮出兵(1592~1598年)
私見では、これは、(1449年の土木の変における明のモンゴル系のオイラトへの敗北以後、明の北方民族に対する影響力が低下したことがコシャマインの戦い等を通じて日本に伝わっていた
→
→
ことを踏まえたところの、)遊牧民系の弥生人に対する予防戦争、と、イデオロギー(キリスト教)を尖兵とするゲルマン系の弥生人に対する予防戦争、とを兼ねた戦争であって、その目的は縄文性(人間主義)と縄文的弥生性からなる日本文明の世界の普通人諸社会等への普及だった。。
しかし、縄文モード志向の天皇家、信長流日蓮主義推しでかつ豊臣家による関白位乗っ取りに反対の近衛家、この両家に配慮した千利休や豊臣秀次、そしてキリシタン達(北政所周辺、及び、キリシタン諸大名)、等に足を引っ張られているうちに、秀吉が亡くなってしまい、非完遂のまま終わってしまった。
日本がこの戦争に勝てなかった筈がないのであり、現に、それからわずか21年後の1619年に、後金(後の清)が、明にサルフの戦いで大勝利を博し、
→
明を名存実亡状態に陥れ、1636年に清朝の成立が宣言され、1644年には明は滅びてしまうのだから・・。
→
また、1580年にポルトガル王を兼ねることになったスペインのフェリペ2世に対し、1582年、1584年、1585年に、日本のイエズス会布教長は、キリシタン日本人傭兵も動員する形での明の征服を進言しており、(日本の征服は困難だが、)明の征服は容易である、と報告していたところだ。
→
「秀吉は、信長流日蓮主義とは一味違ったところの、朝廷を巻き込んだ」理由と、以後の日蓮主義者たちが秀吉流を選択したことに必然性があったのかが、まだよく解りません。
⇒信長は日蓮主義に基づく対外戦争の帰趨如何に関わらず天皇制が維持される(可能性を高める)ために信長流日蓮主義を追求したのに対し、秀吉は日本の全ての資源をこの対外戦争に投入するためには天皇を巻き込む必要があると考えた、というのが私の想像です。
ところが、最初の秀吉流日蓮主義に基づく対外戦争は不完全燃焼で終わってしまいます。それは、天皇家と近衛家が邪魔だてしたため、と、戦争遂行中枢が秀吉個人であってシステム化されていなかったため彼の死によってこの中枢が消滅してしまったため、であったと見ることができます。(太田)