聖徳太子コンセンサス
二、遣隋使の目的--高向玄理の隠された役割
遣隋使の派遣目的は、ホンネは、(今回初めてこういう言い方をしますが、)漢人文明が騎馬遊牧民系によって滅ぼされた原因を究明した上で日本ないしプロト日本文明が同様に滅ぼされないようにするための対策を模索することであった、というのが、私の最新の仮説です。
付言すれば、かかる対策を模索するにあたっては、日本に封建制的なものを導入すべきであるとすれば、それはいかなるものであるべきか、とりわけ、その担い手はいかなる人間であるべきか、という観点から行え、という指示を厩戸皇子から与えられた上で、遣隋使は派遣されたのである、と。
以上に加えて、派遣目的は仏教の、より体系的にして詳細な勉強である、と先方に伝えることとすると共に、この封建制の担い手の非人間主義の実践による人間主義性の毀損の回復方法をこの勉強を通じて模索するよう、とも厩戸皇子は指示した、とも。↓
これも結果論だが、栄西がインドに赴き、サマタ瞑想だけの支那の禅とは全く違う、釈迦直伝の瞑想(サマタ瞑想+ヴィパッサナー瞑想)という、非人間主義者(弥生人)を人間主義者(縄文人)にする方法論(コラム#省略)を学んで帰国したならば、というか、運よく帰国できたならば、それだけを普及させようとしたかもしれず、その場合、日本人の大部分を占める縄文人には全く意味がなかったし、せっかく創り出されたところの、日本人のごく一部の縄文的弥生人を縄文人に戻してしまった可能性があり、そんなことになっておれば、それまでの天皇家/藤原氏の長年の努力が全て元の木阿弥になってしまったかもしれないからだ。
さて、栄西のスゴイところは、支那の禅(サマタ瞑想)だけでは、武家の縄文性維持方策として十分ではない、いずれにせよそれだけに頼るのはむしろ有害かも、と、支那の禅を見切りつつも、なおかつ、その禅を持ち帰った、と、思われることだ。
そのことを示唆しているのが、栄西が、1191年に、茶の種と共に帰国し、臨済禅の布教を開始するのと並行して茶の栽培を始め、茶を飲むことを貴族や武家に勧めたことだ。
私は、栄西にとって、茶、というのは、支那の臨済宗の「公案」、の換骨奪胎物だったのではないか、という気がし始めている。
そのココロは、神道の日常生活への取り込みだったのではないか、と。
気になるのは、この第1条は、御成敗式目と違って、神道振興を謳っていないように見えること、と、それに加えて、上掲ウィキペディアが、この第1条は、儒教に由来するとし、「第1条の「以和爲貴、無忤爲宗。」(和を以て貴しと為す、忤ふること無きを宗とせよ)は、孔子の『論語』第1卷 学而第12「有子曰 禮之用和爲貴」(礼を之れ用ふるには、和を貴しと為す) が典拠である。」としていること、だ。
しかし、
<一、上出の十七条憲法の>第6条と第17条でも「和」が訴えられていること、
<二、>「古来、日本は「倭」(わ、やまと)の名・表記を自称に用いていたが、7世紀頃から国号を「日本」へと改め、また旧来の呼称である「わ、やまと」の漢字表記として、「和、大和」の表記を用いるようになっていった」こと、
<三、>また、「今日に至るまで、「大和(和)」は<、>「日本(日)」と並ぶ自称として日本人に併用され続けて」おり、「「和」という概念・思想性が日本人の間に普及・浸透し、それをアイデンティティ・拠り所とする日本人を今なお一定数生み出し続ける要因となっている」こと、
<四、>更にまた、「仏教と神仏習合を通して混淆してきた歴史がある神道も、「八百万の神」概念が寛容性を示す概念として提示されつつ、「和の思想」と結び付けられて論じられることが多い」こと、
→
等からして、私は、厩戸皇子が、(彼が十七条憲法を作ったという前提で、)「人間主義」という言葉はもとより概念すら当時にはなかったので、第一条において、この「和」という言葉でもって近似的に「人間主義」を表そうとした、そして、神道はこの意味における「和」を体現しているけれど、神道には、教義も、従って、仏教倫理や儒教倫理的な倫理もないので、神道への直接の言及は避けた、と見るとともに、御成敗式目を北条泰時以下の鎌倉幕府の首脳達が制定した時の彼らの認識もそうだったけれど、十七条憲法の第1条と同じようなものを御成敗式目の第1条に持ってきたのでは、人々に仏教だけ振興すればいいのだとの誤解を与えかねないので、あえて、神/神社(神道)と明記したに違いない、と考えている。
そうだとすれば、私の言う、聖徳太子コンセンサスに関しては、(桓武天皇構想の方とは違って、)鎌倉幕府が成立するまでには、広く、武士達の間で、その全体像が共有されるに至っていた、ということになろう。(太田)
⇒もともと、厩戸皇子は、「なにはともあれ、国家的自立を守らねば意味がない」と考えて、縄文的弥生人を創出すると共に、その彼らに一所懸命に自分達の所領を守る意識を涵養させるために、日本の地方分権化(封建制社会化)を構想し、この構想の具体化を図る手掛かりを求めるべく遣隋使を派遣し、途中経過を省きますが、元寇をさえも日本が乗り切ったことで、封建制社会の日本の守りは相当堅固なものになっていたことが証明されたけれど、蒙古以上の軍事能力を持った勢力が再び日本を窺う恐れが否定できない一方で、かかる恐れが現実化するまでの間、国内の静謐を維持するだけのためには過大な軍事力が、地域ごとに縄文的弥生人達が割拠する形で維持されることは、国内の静謐を不可能にするとの懸念が強まり、実際、この懸念が的中して日本は戦国時代に突入するに至ったところ、この過大な軍事力を、日本が再中央集権化することによって、国内の静謐を回復すると共に、日本以外の諸国、諸地域に対して、この過大な軍事力を行使して制圧し、制圧下に置いたこれら諸国、諸地域の人々の人間主義化を推進することによって、日本を含む全世界の静謐を実現することを目指す、という気宇壮大な日蓮主義が日蓮によって生まれ、天皇家や近衛家等の努力もあって、ついに、信長に至って、日本は、この主義の遂行目前にまで漕ぎつけた、というのが私の見方であるわけです。(太田)
騎士道の倫理は外から与えられたキリスト教の倫理であったところ、武士道の倫理は内にある人間主義であった、という違いが決定的です。
つまり、「菊と刀」をもじって言えば、ベネディクトの指摘はあべこべだったのであって、騎士道は他律的な「恥」の倫理であるのに対し、武士道の方こそ自律的な「罪」の倫理なのです。
すなわち、倫理にもとる言動を自分が行ったかどうかを、騎士は気にして、キリスト教教義に照らして・・聖書を読むなり神父に聞くなりして・・判断した上で、自分の言動を正したりするのに対して、武士は、自分自身の内にある人間主義を再活性化することに配意することによって、そんなことを気にしない済む、と、信じていたのです。
私見では、聖徳太子は、将来創り出されるところの武士(縄文的弥生人)の場合、折に触れての神社の参拝だけでは、(縄文人とは違って、)内なる人間主義を再活性化するには不十分であると考え、仏教の中にその方法論ないし手がかりを探らせたのであり、かかる問題意識を踏まえて、(支那仏教にはその方法論が欠如していたけれど、)栄西から始まる仏僧を中心とした様々な日本人達が、神社での参拝・・自然の中で定められた手順(型!)で行う・・を日常生活の中に取り込む・・日常生活の中に自然と型を組み込む・・工夫を重ねたおかげで、武士道が成立するに至ったのです。
そして、発想の原点が神道であったことから、武士道において武道の型が重視されることになったのですし、茶道は身を清める型として、華道は自然の中の華のアナロジーとして、書院造は里山付神社のミニチュア版として、能や歌舞伎は参拝(祝詞)の歌舞音曲化版として、それぞれ、武士のために生まれることになった、というわけです。(太田)
法華経が、厩戸皇子(聖徳太子コンセンサス)→最澄→日蓮(日蓮主義)、を繋いでるんだよ。
当時、名前がなかった「人間(じんかん)主義」を体現している経典が法華経だ、と、彼らは思ったのよね。↓
「・・・日本書紀に太子ゆかりの地として登場しない滋賀になぜ太子信仰が根強いのか。解くカギは「平安時代初期に滋賀で生まれ、日本天台宗を開いた、最澄にある」・・・
最澄は奈良仏教(東大寺)から独立を図り、当時新興だった天台宗を開き比叡山延暦寺(大津市)を建立。一方で中国天台宗開祖・智顗(ちぎ)の師、慧慈(えじ)が太子に生まれ変わり日本で仏教を広めたとされ、太子が天台宗の祖という太子信仰の影響力を借りようとしたのだと思います」・・・」
→
↑で、厩戸皇子は、一、安全保障の観点から日本で縄文的弥生人を生み出す方法、と、二、その縄文的弥生人の縄文性維持・回復手段、を見つける、という、聖徳太子コンセンサスを形成し、一については、桓武天皇が桓武天皇構想という方法を確立し、二については栄西が神社環境の日常生活空間への取入れという手段を確立し、日蓮は、増え過ぎた縄文的弥生人に対して武力を用いての世界の人々の人間主義者(縄文人)化というミッションを与えた・・法華経に照らせばこのミッションが完遂される過程で縄文的弥生人の縄文性が完全回復し縄文人回帰がなるはずであるところ、日蓮は、もう一つの、というか法華経内在的な縄文性維持・回復手段を「見つけた」とも言える(←この部分は初めて書く)・・ってわけ。
厩戸皇子は、仏典就中法華経に着目し、同経が説く人間主義が日本人には縄文人なので備わっているけれど、日本の安全保障目的から縄文的弥生人が創出された暁には、毀損された縄文性を回復しなければならないところ、その方法が、人間主義的実践しか仏典就中法華経には記されていないことから、(縄文的弥生人創出方法と併せて縄文的弥生人の)縄文性回復の技術的方法論を発見するためにも、遣隋使を派遣する必要があった、というのが私の説(コラム#省略)であるわけ。↓
覚えておられないのかもしれませんが、私見では、日本仏教の最大の歪みは、日本人・・基本的にはみな縄文人・・は人間主義者であって既に悟っているので、悟りを勧める仏教など必要ないにもかかわらず、仏教が、国家鎮護や個人的御利益に資するものとして日本に導入され、やがて、神仏習合の形で、日本に定着してしまったところにあるわけです。
ついでに、これも覚えておられないかもしれませんが、私見では、厩戸皇子は、縄文人の中から縄文的弥生人を創り出そうとしたけれど、創り出される縄文的弥生人が縄文性(人間主義性)を維持したり回復したりするために仏教が役に立つのかもしれないと考えたけれど、後世の人々はついにそれを支那仏教の中で発見することはできなかったものの、更に後になって出現した栄西なる仏僧が、神社的環境を日常生活の中に取り入れることで、それに成功するわけです。
但し、日本の仏教は、日本人の美意識の向上や芸術の発展・・上出の動画にも日蓮信徒の長谷川等伯
→
の話題が登場する・・に大きな役割を果たしましたし、日蓮の思想ないし日蓮主義の形成を通じて、日本のみならず、世界に決定的な変化をもたらすことになったということも、申し上げてきたところです。
そんな大乗仏教の諸経の中で、厩戸皇子が高く評価したのは、彼が『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』で注釈したところの、『法華経』と『勝鬘経』と『維摩経』
→
であったことを思い起こしましょう。
私に言わせれば、維摩経は、どれだけ勉強をしようと、悟る(=私の言葉にすれば人間主義者になる)ことなどできない、と説いたもの
→
であり、勝鬘経は、悟るには世俗的な利他的行為をすることが一番だ、と説いたもの(注42)
→
であるところ、法華経についての説明は省きます。
厩戸皇子を含む、日本古代の統治者達は、相対的に人間主義的であるところの、支那の南朝、にシンパシーを抱き続けた、仏教、就中大乗仏教の精華は慈悲、すなわち、人間主義、その実践の奨励にある、日本の天武朝の歴史は、慈悲(人間主義)の実践、非実践を巡って展開した
厩戸皇子は、仏教徒になれと言っているのではなく、倫理の根本を突き止め、それを追求しているところの仏教に敬意を持て、と言っているのだ。
その倫理の根本とは、利他行(人間主義的実践)だ。
皇子著とされる、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は、「『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称で<、>・・・それぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書(義疏、注疏)である。」
(注81)厩戸皇子は、その著の『法華義疏』の中で、「四安楽者。一智慧行。二説法行。三離過行。四慈悲行」と書いている。
→
私なりの思い切った現代語訳をすれば、「人にとって4つの楽しみがある。我々が人間(じんかん)的存在である(自然や生きとし生ける者は相互依存関係にある)ことを知ること、その認識を社会に広めること、非人間主義的言動を行わないこと、そして、人間主義的言動を行うこと、だ」といったところか。
なお、紫式部は、『源氏物語』の蜻蛉の中で、「仏のし給ふ方便は、慈悲をも隠して、かやうにこそはあなれと、思ひ続け給ひつつ、行ひをのみし給ふ」と書いている(上掲)ところ、こちらは、人間主義的言動を行うことは人として当たり前のことだ、といったところか。
私は、厩戸皇子は「聖徳太子コンセンサス」を密かに掲げ、このコンセンサスを完遂した暁に日本に確立するであろう弥生性の担い手達の縄文性(人間主義性)が毀損するであることを見越し、当時の日本の為政者達に代わって日本の新たな為政者達になるであろう彼らに、その縄文性の回復・維持の縁にしてもらうべく、当時の日本の為政者達にとっての常識(注106)を、文章に起こした、と、見るに至っている。
そこで、厩戸皇子は、単なる外国たる大国の隋に対等の立場で遣隋使を送り、仏教の勉強目的に藉口して要員を派遣し、騎馬遊牧民系勢力に対する軍事的対処方法やこの対処を行う戦士創出方法を密かに探らせると共に、仏教についても、かかる戦士が毀損されるであろう縄文性(人間主義性)を修復する方法を仏教の中から見出だせないか、を調査させることにした、と、私は見ている。